杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

佐伯一麦と梶井基次郎

佐伯一麦と「檸檬

佐伯一麦は「木を接ぐ」で1984年に「海燕」の新人賞をとってデビューしました。

その前年、同じタイトルの作品を第56回文學界新人賞に応募し、一次選考まで通過しています。その時に用いた筆名は「佐伯麦男」というもので、佐伯はこれを「ばくだん」と読ませ、梶井基次郎の「檸檬」のように文壇に爆弾を送り付けたような気持ちになっていました。そのことは、『蜘蛛の巣アンテナ』(講談社、1998年)の「ペンネームについて」や、岩波書店編集部『私の「貧乏物語」』(2016年)などに書かれています。また、「ペンネームについて」を読むと佐伯が『檸檬』を愛読していたことが分かります。

そういうことを私はずっと前から知っていましたが、そういえば梶井の「檸檬」て読んだことあったっけ? とふと思いました。学生時代に読んだことがあるような気がする。ないような気もする。丸善の売り場で本を積み上げ、その上に檸檬を載せて、丸善を出る。檸檬を爆弾だと思い、出た後に爆発するのを楽しみにする、という内容は知っていましたが、読んだかどうかは覚えていませんでした。

「城の崎にて」のような随想

それで先日、読みました。小説というよりは志賀直哉「城の崎にて」のような随想で、べつに面白くない。冒頭に出てくる「えたいの知れない不吉な塊」が何なのか、二日酔いの気持ち悪さのようなもののようですがよく分からず、語り手は病気や借金があり、とはいえそのせいではないと述べています。

夢遊病のような現実から遊離した感覚で街を歩きますが、語り手の感性はとても鋭敏で、街中で出会うものの形や色彩の鮮やかさを心に刻み付けています。その日は果物屋檸檬を買い、丸善に行って、積み上げた本の上に置く。だいたいそのような経緯を描いた、ごく短い文章です。

やたら描写に凝った文章になっており、特に若者が「文学の精髄に触れた」と思いやすい作品になっていると感じました。その点も「城の崎にて」に近いものがあります。佐伯が「佐伯麦男」を用いた時は二十代です。「檸檬」を愛読していたというのは、頷けることです。