杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

セルフやりがい搾取

このブログで何回か「やりがい搾取」について書きました。これは、経営者が労働者に「やりがい」を強く意識させ、本来支払うべき賃金や手当などを支払わない行為です。

要するに、雇用する側が雇用される側に対し、「うちの仕事はとても楽しいよ」「成長できるよ」「やりがいがあるよ」などと言い、そう思わせることで、安い給料や残業代などが支払われないことを納得させる、ということになるでしょうか。

近年、ブラック企業は社会的によく叩かれるようになりましたが、私は、仕事にやりがいを感じている労働者が苛酷な労働の中でやがて消耗していく、という構図の中に、経営者が労働者のやりがいを搾取している、と簡単には言えないケースがある気がします。

労働者本人がキツい仕事に勝手にやりがいを見出し、勝手に自分を追い込み、会社に黙って持ち帰りサービス残業などをしてしまい、挙げ句の果てにバーンアウトしてしまう…。という例がたまにあるように思うからです。

以前、西陣織の職人の弟子募集が「やりがい搾取」ではないかと問題になり、賛否両論ありましたが、それと似ているかも知れないし違うかも知れません。

無知な人が無知なまま、あたかも自分に陶酔しているような状態で、本当に自分の適性に合った仕事かどうかも分からずその世界に飛び込む。給料は安い(それは会社側から最初に提示済み)。次第に体が故障を来して、辞めたいと思うこともあるけれど、そんなんじゃ成長できない、きっとこの先に大きな達成感がある、若い頃の苦労は買ってでも背負えというし、やらなきゃ!と自分を追い込む(会社側は、休みたい時には休んでいいよ、就労環境に問題があるなら言ってくれ、と伝えているにも関わらず)。そしてバーンアウト。。

そんな一連の流れを見ていた第三者は、その会社を「やりがい搾取」をしている、と言うかも知れません。本人が、自分の思い描いていた理想と現実のギャップに納得できず、ややもすると「騙された」などと言い出すかも知れないからです。

しかし上記の( )の事実があれば、それは会社が問題には対処する姿勢を見せていたことになるので、勝手に追い込まれる方が愚かという気がします。自分に陶酔していたことが根本的に間違っていたんじゃないかと。

そういう「セルフやりがい搾取」とでも言うべきケースが、世の中にはけっこう多いんじゃないかと思っています。

ポオ「沈黙」

エドガー・アラン・ポオの「沈黙」(『ポオ小説全集2』(創元推理文庫、1974年)所収、永川玲二訳)を読みました。

わずか5ページのごくごく短い作品で、その内容は、悪霊が「ぼく」に、私の物語をきけ、と話し掛けてきて始まります。その物語は、リビアの僻地、ザイレ河の流れるあたり、が舞台ということですが、アフリカだからザイール川のことかなと思いましたがザイール川(コンゴ川)の流域にリビアは入っていないようで、よくわかりません。河の水は「病的なサフラン色」、その河床は巨大な青白い睡蓮で埋め尽くされていて、周囲の岩の頂上には「神の風貌」の男が立っている……

と、幻想的な情景なのですが、その後の展開はちょっと意味不明です。ネットにはブロガーが独自の解釈をした記事があったりしますが、私はちとお手上げでした。。

本作についてポオの伝記『告げ口心臓』(八木敏雄訳、東京創元社、1981年)を書いたジュリアン・シモンズは、その伝記の中で、ポオの複数の作品の中でも「ほとんどいかなる点でも現実と接触しない物語」に属する、と言っています。なおかつ「短い散文詩」とも述べていますが、『告げ口心臓』ではそれ以外に「沈黙」に関する記述が見当たらず(あるかも知れませんが未読。少なくとも索引にはその箇所があるページしか記されていません)、成立事情や作品に込めた意図もよくわかりません。

何を読もうか…

師走です。忙しい。忙しいのはいいのですが、どうやら疲労の蓄積がかなりの量に達しているらしく、一週間くらい集中して休みたいと思う毎日です。

とはいえ、繁忙期のピークが過ぎ、仕事納めが視野に入ってきました。連休には読み応えのある長篇に手を出したいので、さて今年から来年にかけては何を読もうかしら、などとつらつら考え始めています。たいてい、読み始めたはいいが読み終わることなく連休が終わってその後も読み続けることになるのですが、連休となるとやはり長篇を読みたい気分に駆られます。

ここ数年、私が連休に読む作品といえばたいていはバルザックの重厚な小説でしたが、べつのものでもいい。古典でもいいし、山崎豊子とか司馬遼太郎とか現代作家の有名作でもいいなぁ、と思っています。

ポオの『ピム』はもう読んだので、残っているのは短篇ばかり。となるとポオを読む選択肢はないことになりますが、待てよ、ポオの短篇を集中的に読んで怪奇幻想に耽るのも一興かもしれない、とも思います。

まぁ、ゆっくり考えることにします。

お金のはなし10 マネーリテラシー

先日、ふるさと納税について複数の人に体験談を話す機会がありました。せっかくだから私が話すだけでなく、皆にも話題を振ってみようかなと思い、ふるさと納税をやったことがある人はいますか? と挙手を求めたのですが、数十人いた中で手を挙げたのは一人だけでした。

ふるさと納税は、返礼品に美味しい食べ物をもらうもよし、日用品などをもらってストックするもよし、でやらない手はないと思う制度ですが、意外とやっている人は少ないようです。少なくとも私の周りでは。

聞くところによると、日本人のマネーリテラシーは先進国の中で低いそうです。金融リテラシー調査(2019年)の結果、家計管理、金融取引、経済、保険、資産形成などの問題に対する正答率が軒並み半数程度だったらしく、外国に劣る水準だったとのこと。その問題を紹介していたようつべ動画があったので見てみたら、私は全問正解できたので少し安心しましたが。。

コロナ禍が出てくる前のこと。飲み会をしていた時、自分は株式投資をしている、と私が話したら、俺は株だけは絶対に手を出すなと親に言われたからやっていない、と一緒に飲んでいた人から言われました。その人は私と世代が近い人で、従って恐らくその親は戦後の経済成長を体験した人であるはずです。株などに投資しなくても給料は上がり、頑張ってさえいれば豊かになっていった人なのかな、と思いました。また、絶対に株に手を出さないということは、なるべくリスクを取らず、堅実に着実に、日々真面目に働くことを美徳としていたのかも知れない、などと想像しました。

もちろん私の周囲には株を買っている人もいるにはいます。しかし、落ちる前に売り逃げるだの、売るタイミングを失して数百万円損しただの、ギャンブルめいた投資の仕方をしている人ばかりで話が合いません。

私より年下のある人は保険会社の個人年金を契約しているそうです。どんな商品なのかは聞いていませんが、私は会社員なら国民年金と厚生年金があってあとはiDeCoをやっていれば十分じゃないかな、と思っています。他にも子供のために学資保険に加入している人がいましたが、生命や火災など代表的なものを除いた用途別の保険商品は基本的に不要、というのが私の考え。

こんな具合で、お金に関する話題は周囲の誰とも考えが合わず、独自に勉強して家計を最適化する日々です。私は自分に十分なマネーリテラシーがあるとは思っていませんが、少なくとも周囲の人たちがお金を正しく使っているとは思えず、というよりその使い方に共感できず、考えが合う人とお金について情報交換してみたい、と思うことがよくあります。

考えが合う人は、もしかしたら案外近くにいるかも知れません。ですが、知り合う機会も話す機会もない。もしかしたらそういう孤立無援の状況そのものが、日本人のマネーリテラシーの貧困さを表しているのではないか、と考えることがあります。

江戸川乱歩の若かりし頃

先日このブログに書いた柳川一「三人書房」は、井上勝喜という江戸川乱歩平井太郎)の鳥羽造船所時代の同僚が視点人物の短篇推理小説です。

小説は井上の、やや情緒的な語り口が特徴ですが、その冒頭に乱歩の『探偵小説四十年』の一節が引用されています。「まだ古本屋の商売をどうにかやっていたころ、鳥羽造船所時代の同僚で井上勝喜という、私より二つ三つ年下の男(故井上良夫君のお父さんも、鳥羽時代の先輩社員であったが、それとは別人)が古本屋の二階にころがりこんでいて、これがまた非常な探偵小説好きだったものだから……」とあります。

その引用の後に、「二人」(乱歩と井上)は、探偵小説談義を始めれば時間が過ぎるのを忘れ、読み出した本を途中で止めてデータを共有して犯人当ての推理比べに熱中した、などと続きます。また、お互いに小説の筋を考えて話し合ったりした、といったことも書かれています。

私は上記引用箇所が気になったので、このたび『探偵小説四十年』(沖積舎、1989年)を借りてきて、その箇所を読んでみました。ちなみにこの本、限定500部の復刻本ということで、図書館にあったのはその貴重な一冊ということになります。500ページ超になる大著で、文字がびっちり詰まった3段組みの本ですが、巻末に人名索引がついているので井上の登場箇所を見つけるのは簡単でした。

さて上記の引用箇所ですが、こんな風になっています。

 大正九年(算え年二十七歳)自営の古本屋がうまく行かなくなり、探偵小説の出版を目論むに至ったキッカケを思い出して見る。その前年、まだ古本屋の商売をどうにかやっていたころ、鳥羽造船所時代の同僚で井上勝喜という、私より二つ三つ年下の男(故井上良夫君のお父さんも、鳥羽時代の先輩社員であったが、それとは別人)が古本屋の二階にころがりこんでいて、これがまた非常な探偵小説好きだったものだから、二人で探偵小説の筋を考えたり、今の二十の扉のような遊戯をやったり、部屋の中に小さな品物を隠して、それを推理で探し出す遊びなどをやったものだが、未読の探偵小説を一方が朗読し、データが出揃ったところで、本を伏せて、犯人の当てっこをするのも、そのころの楽しみの一つであった。そんな風にして、二人がてんでんに探偵小説の筋を考えて、それを相手に話して聞かせた中の、私の考えた筋を小説に書いて、どこかへ売りつけようと考えたのである。

なるほど、「三人書房」の記述は『探偵小説四十年』の記述にけっこう忠実であるのが分かります。

数え27歳というともう立派な大人ですが、乱歩は友人とそういう愉快な遊びをしていたんだなぁ、と思いました。私自身のその年齢の時期を思い出すと、同人誌に参加し、その仲間や友達と飲んでばかりでした。

仇敵

米澤穂信氷菓』(角川文庫、2001年)を読んでいて、「仇敵」という言葉を見つけて懐かしくなりました。

主人公の折木奉太郎は、高校の教室で旧友・福部里志と話していて、福部のことを「わが旧友にして好敵手、そして仇敵。…」と形容しています。

その箇所を読んで、高校時代に読んだ横溝正史金田一耕助シリーズ第一作『本陣殺人事件』に出てくる「君のいわゆる生涯の仇敵」を思い出しました。同じ推理小説ということで、そう連想してしまったのかもしれません。もしかしたら、著者はこの「仇敵」を記した時、横溝の『本陣』を思い浮かべていたのかも…などと思いました。

池井戸潤に『仇敵』という作品があります。

地道に書く

シド・フィールド『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』(安藤紘平、加藤正人、小林美也子、山本俊亮訳、フィルムアート社、2009年)の第17章「書き終えた後」の最後は、「まずは自分の脚本を書くことだ」という見出しがついています。

その中に、脚本を書くこととお金のことについて書かれている箇所があります。

 もし本当に業界に入っていきたいのであれば、まずは自分の脚本を書くことだ。お金のことは二の次である。
 ハリウッドでも、巨額の脚本料を受け取っているのは、ほんの一握りの本当の著名な脚本家だけである。
 自分自身が例外になれると思わないことが大切だ。
 地道に脚本を書くことだ。
 どれだけ稼げるか、ということも考えるべきではない。

 バガバッド・ジータに書かれているように、「自分の行動に付随する果実に執着してはいけない」ということなのだ。何かをしたい、伝えたいから脚本を書くのであって、お金を稼ぐために書くのではないだろう。しかもそれではうまくいきっこないのだ。

地道に書く。小説にも通じることだと思います。

岩波文庫の『バガバッド・ギータ―』は持っているので、こんど、該当箇所を探して読んでみようと思っています。