杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

佐伯一麦と石濱恒夫

佐伯一麦は十九歳の頃、フリーの雑誌記者として作家の石濱恒夫を取材したことが、『とりどりの円を描く』(日本経済新聞出版社、2014年)の「まぼろしのヨット」に書かれている。

すでにこのブログで何度も書いたが、佐伯は上京したての十代から四年ほど、「蟠竜社」という会社にフリーライターとして所属し、記者として活動していた。当時のエピソードは多々あるのだが、いろんなところに書かれていてまとめられていないので、いつかまとめてみたいものだと思う。

さて「まぼろしのヨット」では、佐伯が大阪まで「作家」を取材しに行き、その後、自分が作家志望だと話したら飲みに誘われ、道頓堀の洋食屋で「びふかつ」を食べたことが記されている。石濱は最後まで「作家」という書き方をされており、最後に名前が出されている。

石濱は「らぷそでい・いん・ぶるう」という小説で芥川賞候補になったことがあるのだが、当時の佐伯はその小説と、安岡章太郎の『良友・悪友』を通して本人のことを知っているのみだったという。

それにしても、佐伯はフリーライター時代にけっこう色んな有名な人と邂逅している。まとめてみたい。

佐伯一麦と明屋書店

佐伯一麦の随筆集『とりどりの円を描く』(日本経済新聞出版社、2014年)の「触読」を読み、味わいがあっていいなぁと思った。

「触読」は、佐伯が仙台から上京したての十八歳の頃に書店員のアルバイトをしたエピソードが紹介されている。書店では毎日必ず担当の棚の本を触ってみるよう教育されたが、今は客として行く本屋でも同じこと(触読)をしている、という内容である。

高橋三千綱北島三郎が客としてやってきたエピソードや、万引きをした少年を本を返してもらっただけで許し、それを上司からひどく責められたことがバイトを辞める遠因になったことなど、本と本屋に関するさまざまな思い出が述べられていて面白い。

なおこの随筆には、勤めた本屋の店名は書いていない。『ショート・サーキット』(講談社文芸文庫、2005年)の二瓶浩明編の年譜を見ると、上京したての頃にはフリーライターをしながら中野の明屋書店で夜間のアルバイトをしたりしていた、とある。恐らくそこである。

現物にあたる

前にもこのブログで書いたかも知れないが、ようつべのビジネス系動画などでは、ヒット本の紹介がよく行われている。そして、それを見たユーザーが、この動画は本の内容がとても分かりやすくまとめられている、といったことを書いているのをよく見かける。

しかし、どうやらそのユーザーは紹介された本を読んではいないようなのだ。だから正確には、この動画は分かりやすい、と言うべきだろう。そしてその言葉の裏には、元の本が本当に紹介動画のような内容なのかはわからない、という事実が隠れているわけである。

まとめサイトとか、そういう書籍紹介動画とかは、生齧りする分にはちょうどいいコンテンツであり、かくいう私も情報収集のためによく閲覧している。しかし、紹介されたものをそれだけで理解したと考えるのは間違いで、自分なりの認識を得たいならきちんと現物にあたるべきだと思っている。

「めちゃくちゃ」の使い方

Twitterのタイムラインを見ていたら、あるツイートで手が止まった。

本を読んで、めちゃくちゃ面白い、といった感想を述べる人の「めちゃくちゃ」の意味が理解できない、というツイートである。

気になったのでこのブログで検索してみたら、めちゃくちゃ面白い、とか、めちゃくちゃ好き、めちゃくちゃ勉強する、といった使い方をしている記事が引っ掛かった。

私としては、程度が甚だしい、という意味で使っていたが、先のツイートを読み、にわかに自分の「めちゃくちゃ」を疑う気持ちが芽生えてきた。

手元にある学研の辞書を見ると、

めちゃ(目茶・滅茶):1道理に合わないこと。2並外れていること。

とある。「滅茶苦茶」は「めちゃ」を強めた語で、秩序立っていたものが、混乱した状態になること。とある。ただし「非常に」という意味もあり、「めちゃくちゃかわいい」という用例が載っている。

「めちゃくちゃかわいい」が許容されるなら、望ましいこと、喜ばしいことの程度が甚だしい場合に「めちゃくちゃ」を使うのは妥当だということだと思うので、どうやら私が使った「めちゃくちゃ面白い」は間違いでもなんでもなく、普通に理解されて然るべきだろう。

とはいえ、ツイートの指摘ももっともだとも思える。滅茶苦茶という字からして、やはり秩序が崩れて混乱した状態になることの方が正しい意味だと感じるから。例えば、めちゃくちゃ美味しい、というのは、言わんとすることは分かるが、やっぱり変じゃないかと。

そんな次第で、私は今、「めちゃくちゃ」を単に「程度が甚だしい」という意味で使うのを警戒するようになっている。

ちなみに徳田秋聲の「新世帯」には「傍目もふらず滅茶苦茶に働いた」という部分がある。

「厄介な奴ら」

佐伯一麦『とりどりの円を描く』(日本経済新聞出版社、2014年)の「小川の文学」に、佐伯が若手作家の頃に参加していた勉強会「奴会」のエピソードがちょっと出ている。

「小川の文学」は、小川国夫と中沢けいと佐伯が志賀直哉の文学についての鼎談をしたことから書き出されていて、中沢とはほぼ十年ぶりの再会になったことが書かれている。

鼎談の後、島田雅彦小林恭二、盛岡出身の詩人である城戸朱理、劇作家の川村毅、評論家の富岡幸一郎らと会議室を借りて勉強会をしていた頃を懐かしく話し合った。
 厄介な奴らという意味を込めた「奴会」の勉強会の後には、頭をほぐそうと決まって酒になった。酒場で居合わせた年長の作家・批評家たちに当方が議論を吹っ掛けるのを、ハラハラしている姉といった顔付きで中沢さんがたしなめることがあったり、すっかり酔った彼女を何とかタクシーに送り込まなければと、金曜日の夜で空車が見つからない新宿の路上の真ん中に飛び出して行っては車を拾ったりしたこともあった。

「奴会」についてはこのブログで過去に数度触れたが、読みが「やつかい」なのか「やっかい」なのか分からなかったが「やっかい」で間違いなさそうだ。

『文藝年鑑』渉猟

ある小説家のことを根掘り葉掘り調べている。いつか何らかの作品にまとめることになると思うが、今はその小説家の事績をなるべく多く集めているところで、『文藝年鑑』を渉猟中である。

これまでもその小説家の単行本、文庫の類いを読み、雑誌にのみ出ている文章だったら大宅壮一文庫で調べ、新聞への寄稿なら縮刷版に当たってきた。過去の文藝誌にも当たっているのは言うまでもない。グーグル検索もするし、ciniiでも検索する。すでに詳細な年譜があるので、その一行一行をつぶすようにやっているのだ。

それでも穴があるかも知れない、既存の年譜にない事績があるかも知れないと、過去の『文藝年鑑』をその小説家の活動期間に絞って一冊ずつ舐めるように読んでいる。

私がやっているのは、まぁ文学研究の真似事だと思っているが、研究というのはこういう、ネットを含む世のあらゆる情報を渉猟して、事実をひたすら収集することなのだ。もちろん、小説家といえど、ネットに出ておらず、『文藝年鑑』にも出ていない事実は大量にあるわけで、『文藝年鑑』を渉猟し終えたら仕事が終わるわけではない。また、存命かつ現役の作家なので、いつどこの地方の新聞や雑誌などにひょいと文章が出るか分からない。いや、たとえ死んだって、遺族が資料を整理していたら未発表作品が出てきたとか、書簡が発掘されたとか、あるかも知れない。

かように、どれだけ資料を渉猟しても渉猟し尽くせるというものではなく、それが研究の大変さであり辛さでもあるかも知れないと思う。

『DEATH NOTE短編集』を読んだ。

大場つぐみ原作、小畑健作画の漫画『DEATH NOTE短編集』(集英社、2021年)を読んだ。『DEATH NOTE』のスピンオフで、夜神月以外の「キラ」が出てきて、それぞれあっけなく死ぬ。ほか、「L」の過去や一日の過ごし方、「ジャンプ」に2003年に掲載された短篇も載っていて、それぞれ面白い。

魅力的なキャラクターと強固な世界設定があれば、本編以外にいくらでも短篇が生み出せることが分かる。「キラ」のタイプをいくつも作れば、その数だけストーリーも作れるだろう。

本書の目玉は、何といってもデスノートを売ろうとする「田中実(ミノル)=aキラ」だろう。計画は完璧で、「L(ニア)」にも勝利するが、デスノートのルール変更という予想外の展開が起き、リュークに殺される。ミノルは学校の成績は良くないが頭はキレる少年で、「L」にも頭がいいと言われる。ゲームが上手いということだと思う。