杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

連休は古典長篇を耽読

いろいろ考えた結果、今年の連休はバルザック『暗黒事件』(水野亮訳)を読むことに決めた。第一帝政下のフランスを舞台にした革命派と王党派の暗闘を描き、タレイランフーシェといったユニークな実在人物が登場する歴史小説だが、情けないことに未読だったのだ。

「いろいろ考えた」というのは、読もう読もうと思いつつなかなかまとまった時間がなくて手をつけられずにいる古典長篇が多数あるのだが、絶好の機会である連休に、さて何を制覇しようか、ということである。『暗黒事件』は『従妹ベット』や『幻滅』などに比べると短いが、文庫本で前後篇があるので長篇ということでいいだろう。

ディケンズ『荒涼館』、スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』、デュマ・ペール『モンテ・クリスト伯』、ゾラ『獣人』、藤村『夜明け前』、ミッチェル『風と共に去りぬ』、ドストエーフスキー『カラマーゾフの兄弟』、ジョイスユリシーズ』、マン『魔の山』、ホメーロスオデュッセイアー』などなど、読んでいない古典が多すぎる。これはあまりに情けないことなので、まとまった時間が持てたら積極的に読んでいきたいと思っている。

もちろん連休とはいえ予定はいろいろあるので、快適な空間で四六時中読書に耽ることができるわけではない。とはいえ一日の内で自分の自由になる時間が比較的長くなるので、数日費やせば長いものでもじっくり味わって読み終えられるのではないかと見込んでのことだ。ちなみに昨年は、ホームページの準備を進めることに時間を費やした。

源氏物語』や『千一夜物語』、『失われた時を求めて』などになるとあまりに長いので、たとえ連休を使ったとしても全篇読み通すのは難しそうだ。これらをきちんと読むなら、今の会社は辞めなくてはならんだろうなぁ。

「一瞬間」の思い出

こないだ谷崎潤一郎の全集を図書館で借り、長篇「肉塊」を拾い読みしたのだが、「一瞬間」という語がいくつか出てきて、ああ谷崎もこの語を使っていたんだなぁと思った。

この語はたしか漱石も『こころ』で使っていたと記憶する。恐らく、それ以外にも多くの作家が色んなところで使ったのではないかと推察するが、私はこの語に一つ思い出があるのである。

かつて、川崎市の同人誌に所属し小説を発表していた頃、私は作中にこの語を使用した。すると同人の一人が、「どうして『一瞬の間』と書かずに、こんな気取った書き方をするのか」と見下した言い方で批判してきたのである。その人はその時、「一瞬間という語は、リービ英雄の小説で見たことがあるが…」などと言い、用例は他にはないかのように言っていたのを私は記憶している。

その同人は詩を書く人で、「一語の間違いが命取りになるからね」などと、それこそ気取った言い方をして、自分が一語一語に極めて敏感であるのを周りに誇らしげに話す、ちょっとキザで嫌な奴だった。それでいて、エッセイでは「閑話休題」の意味を間違えたり、原発問題に言及する文章では「高速増殖炉」と「プルサーマル」を混同していたりと、作品には毎回必ず語の間違いや脱字、誤植の類いがあるバカな奴でもあり、私としてはすでに怒りを通り越して笑いの対象にしていた。

で、その人は私の「一瞬間」への批判をしてきたのだった。私は、「一瞬間」だろうが「一瞬の間」だろうがさしたる変わりはないし、ストーリーにはぜんぜん関係ないことなので、その批判にはあまり耳も貸さなかったのだが、指摘されたことだけは記憶に残っていた。

後年、『こころ』に「一瞬間」があるのを知り、さらに最近「肉塊」にも出てくるのを見るに及んで、なんともはやあの同人はろくに本を読まずに適当なことを言っていたんだなと改めて思った。

ああいう奴が私などを相手に尊大に構えていられたのも、同人誌という、ある種の閉ざされた空間に身を置いていたからだろうと思う。私は十年ほど所属して作品を発表していたが、やめて本当に良かった。

もしこの記事の読者に、同人誌に参加しようか考えている人がいたら、妙に玄人ぶるナルシシスト風の人にはひとまず気をつけることをおすすめする。

「お前なんてぜんぜんダメ」

年上の人と話していてしばしば感じるのは、相手が私に対し「お前なんてまだまだだよ」と、言わないけれど思っているんじゃないかということだ。

べつにこちらは教えてくれとも助言してくれとも言っていないのに、「お前〇〇する方がいいよ」とか「一度〇〇してみたら?」と、見下した感じで言われることが少なくない。本心からの助言ならありがたいのだが、どうも私を見下してやりたい雰囲気を感じる。「お前なんてまだまだなんだよ」とでも言わんばかりなのだ。最近ではだいぶ減ったが、まだそういう空気を出す人はいるし、かつては実際に「お前なんてぜんぜんダメ」などとよく言われた。

そういうことがあると、私はしばしば卑下してしまい、しょんぼりしてしまっていた。自信を喪失して、これだけやってもダメなんだからもう何をやってもダメだ、と絶望感に浸されてしまっていた。

もっとも最近は、そもそも私の方に年上の人=マウンティングをかけてくる人、という私の思い込みや被害妄想があるのかも知れない、あるいは、私の方が年上を馬鹿にした態度を取ってしまい相手が私を生意気だと思ったから見下してきたのかも知れない、などと幅広く考えられるようになってきた。

いずれにせよ、自信を喪失するまで落ち込む必要はない。人間、傲慢になってはならないが、必要以上に卑下するのは精神衛生上よくない。

私は最近、年上のその手の発言を理性で処理できるようになってきて、落ち込まなくて済むようになってきた。私は私なりにこれまでの学業や仕事を通して、年上の人も同年の人も経験していないことをかなりやってきた。

例えば私より映画や小説に詳しい人はいるが、そういう人で私よりインタビュー経験がある人は少ない。逆に私よりもインタビュー経験が多くて巧い人はいるが、そういう人の中で私より映画や文学について詳しい人は少ない。あるいは、映画や文学に詳しくて、なおかつインタビュー経験が豊富な人もいるけれど、では私より板橋や団地に詳しいかというと、もうそんな人はほぼゼロに近い。つまり、私は私なりにこれまで経験を積んできたのだから、決して相手に全面的に劣っているわけではないのだ。

こういう風に、相手が持っていないものを自分は持っていると考えるだけで、自分を必要以上に卑下せずに済む。ただし、それで鼻高にもなるのは馬鹿。私が相手より全面的に勝っているわけではないのは、上記の例を逆に考えてみればわかる。

意気阻喪の三十代四十代

以前、「昭和ノスタルジー」という記事をブログに載せたが、長時間労働を厭わず、その価値観にどっぷり浸かり、今でもそれを肯定している「昭和ノスタルジーな人」は実際にいるようだ。私はそういう人に批判的な感情を持っているし、そんなんじゃこの先やっていけないぞとも思う。

しかし一方で、こうも思う。長時間労働が好きで好きでたまらない人は、その価値観が通用しなくなりつつある現在、相当に意気阻喪しているんだろうな、ということだ。

例えが極端だが、江戸時代まで特権を有していた武士は、それが失われた新しい明治の世を歓迎せずふて腐れていただろう。なかんづく、武士としては若くてバリバリやっていた人が急に明治になったら…面白くないに決まっている。

現在、三十代四十代の人は、恐らく二十代に仕事のやり方を吸収しただろう。当時は「働き方改革」などとは言われておらず、長時間労働によって成果を出すことが当たり前。その価値観を今も持ち続けている人は少なくないと思う。それが、長時間労働を是としない潮流が押し寄せてきたのだ。それを十分に受け止めきれず、不本意ながら従わざるを得ない状態になってしまった人はかなりいるんじゃないだろうか。現役としてこれからもバリバリやっていかなきゃならない時期に状況が変わってしまって、意気阻喪している三十代四十代はかなりいると思う。

べつにそういう人に共感しているわけじゃないが、長時間労働ばかりやって、それに夢中になり、すっかり当たり前になっていた人は、今の働き方はきっと受け入れがたいんだろうなと頭では理解できる。しかし、そんな時代でも、生きていかなきゃいけないのだ。

書きたいから書く。

アメリカ探偵作家クラブ編、ローレンス・トリート著「ミステリーの書き方」(大出健訳、講談社1984年)の「はじめに」の次の文章に共感した。

 作家をつかまえて、なぜ書くのかときいたら、生活のためという答えが返るだろう。それも、普通はぜいたくができるほど稼げるわけでもない。が、もっと金になる仕事の口があると誘ってみても、黙って背を向けるだろう。断る理由を言わないのは、口で説明できないほど自分の仕事にほれ込んでいるからだ。
 わたしたち作家は書きたいから書くのである。

私は作家の仕事で生活できているわけではないが(いちおうライターという肩書きで会社勤めをしている)、他にもっと儲かる仕事を紹介されても気が乗らないだろうし、そんな時間があるなら書き物を進めたいと思う。

口で説明できないほど、というのもその通りだと思う。自分が書いた小説は他にどこにもない、ワクワクするし深い味わいもある作品だと思っている。また、興味のある題材について調べ、まだ他に誰も指摘していない事実を見つけ、ノンフィクションとして書いて発表するのも楽しい。しかしそういう楽しさは、書き物よりも金になる仕事を紹介してくるような人にはほとんどどうでもいいことだろう。けれども、どうしてそんなにコツコツ書いてるんだ?もっと儲かる仕事があるぞ、などと言われても、取り敢えず生活できていれば別にやりたいとも思わない。

作家というのは他人にとっては、調べ物と書き物ばかりしている、合理的でない変な奴かも知れない。実際その通りだと思うが、当人はそれで充実していて他人に迷惑もかけていないなら、愛すべき存在ではないかとも思う。

知育玩具で遊ぶ

週末なのに特に出掛けたりもせず家にいる日は、よく子供と知育玩具で遊んでいる。テレビはクイズやドキュメンタリー番組などが好きで見ることもあるが、思考が停止してしまうので基本的にあまり見ない。

子供の頭を鍛えるために、という目的で買った知育玩具だが、大人でもやると少しはトレーニングになるし、何より親子そろってテレビに釘付けになっているよりずっと有意義だと思う。

やるのは絵合わせカードゲームとかボードゲームとかルービックキューブとか様々。育児をするようになって分かったのは、世の中には実にいろんな知育玩具があることだ。物の形容や構造を把握するためのものや、頭の回転を速めるためのもの、論理的思考力を養うためのものまで、実にバリエーションに富んでいる。

また、一緒にテレビを見るのはコミュニケーションではなく、単にそれぞれがテレビと向き合っているだけである。それよりも対戦したり協力したり、ゲームを通してコミュニケーションが取れる方が良いと思う。

物語合わせ

図書館で見かけた絵本『虫めづる姫ぎみ』(ポプラ社、2003年)を借りて読んだ。文は森山京、絵は村上豊

堤中納言物語』の「蟲愛づる姫君」といえば、『風の谷のナウシカ』のナウシカのモデルの一つとして有名だし、瀬戸内寂聴も好きな古典のヒロインの一人として挙げていた。興味はあったのだが、恥ずかしながら読んだのは今回が初めて。

毛虫を愛する姫というユニークな主人公。たしかに面白いと思うのだが、短篇ということもあって小咄を読んだような気分だった。

とはいえ、やはり古典として残るだけあるというか(生意気だが)、エピソードが一つ一つ絵になっていて印象に残る。右馬之助から蛇そっくりの贈り物が届くところや、右馬之助と中将が女に変装して姫を見に忍び込むところなど、映像的に面白くて読ませる。やはり、読者が先を読みたくなるための要素として、映像的であるのは欠かせないかもなぁと思った次第。

解説は西本鶏介という人が書いているのだが、その中に

 みじかくても見事な物語性をもっているのは読者をまえにして、みずから読み聞かせるための物語として書かれたからで、いわゆる「物語合わせ」からうまれた作品といわれています。「物語合わせ」というのはめずらしい物語やあたらしい物語に歌をそえてだしあい、その優劣を決める遊びで、平安時代の宮中で暮らす女性たちのあいだで流行したといいます。今日の言葉でいうなら物語コンクールみたいなものです。

とある。要するに小説の新人賞みたいなものかな。すると新人賞は遊びか。人生を左右するかも知れない遊びだろう。

映像的、物語性、珍しさ、新しさ、そして遊び。なるほどなぁと思った。