杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

世界は精密、世間は粗雑

最近、漠然と感じること。世界はあくまで精密にできているが、文明や社会はいい加減で、粗雑ですらある。

人間は人間同士で集まり、組織を形成し、ルールや習慣を使って運用する。しかしそのルールは巨細にわたり厳密に適用されてなどおらず、習慣もまた、一定のベクトルを持つもののあくまで習慣に過ぎず、人はそれぞれ自分の都合に合わせて習慣に合わせて行動し、時に背いてもいます。

物理法則や論理は極めて厳密に、完璧に適用されているのは間違いないと思います。しかし人間はそうではありません。法も思想も、どれだけ浩瀚な書物に書き表したとしても、世界の精密さにはまったく手が届かず、つねに穴だらけではないか。

小説というのは、人間同士の出来事を描いた「お話」だと私は思っています。上記を元に考えると、小説のキャラクターは結局は不完全であり、おかしな判断や行動をします。しかし世界はキャラクターの動きなどとはまったく関係なく、常に厳密に、完璧にその法則を現実に適用しています。

独創で勝負しなくていい

「標準クラス」の作品

『個性を捨てろ!型にはまれ!』(大和書房、2006年)は、漫画家の三田紀房先生による一種の自己啓発書です。その中に、「食える」漫画家と「食えない」漫画家の違いについて書かれている箇所があります。両者は今では完全に二分されている、として、

 そして漫画家にとって、勝ち組と負け組を分けるボーダーラインは、ただひとつ。
 それは「漫画誌に掲載されるか、されないか」である。
 どれだけ絵がうまくても、どれだけ高尚なテーマの作品であっても、掲載されなければプロとして意味をなさない。ご飯が食べていけない。
 逆に言えば、「このレベルが描ければ雑誌に載る」という標準クラスの作品が描ければ、掲載され、原稿料がもらえ、生活ができる。とりあえず、プロとしての第一関門は突破できるわけである。

その上で、自分は漫画家として画力は低いが、ストーリーやキャラクターで勝負すればいいと思っている、と述べます。また、アイデアは独創ではなく既存のものの組み合わせによっていくらでも作れる、と。

画力、キャラクター、ストーリー…。勝負の要素はさまざまでしょうけれど、恐らくワナビにとっての問題の一つは、何らかの要素を「これで勝負する」というところまで磨き上げられるか、ということです。「標準クラス」といえど、どこかに新しさや光るものがあることが条件なのでしょう。多くのワナビはそれを、悩み苦しんで「独創」しようと頑張るのですが、そんなことしなくていいよ、ということなのだと思います。

西村賢太と島田雅彦

ホテトルを奢る約束

先日、このブログに西村賢太『一私小説書きの日乗 野性の章』(KADOKAWA、2014年)の2013年12月28日の記録について書きましたが、実はその前日の記録も興味深いものです。

12月27日は雑誌「新潮」の忘年会が「かに道楽」で行われたようで、西村は矢野編集長などと共に参加。その後、矢野らと一緒に「風花」に流れました。「風花」でも忘年会らしき賑やかな飲み会が行われていて、中華料理の大皿がたくさん置かれていました。そこには島田雅彦もいたらしく、

 島田雅彦氏に、いつホテトルを奢るのか、と難詰される。
 そう云えば三年前の芥川賞受賞時に、拙作を推して下すった銓衡委員の一人である氏には、その直後にホテトルを奢る旨お約束し、あと、それっきりとなっていた。

西村が「苦役列車」で芥川賞を受賞したのは2010年下半期の第144回です。島田雅彦はこの回から選考委員になったので、最初に選んだ作家が西村賢太だったことになります(朝吹真理子も同時受賞)。しかし西村がその恩に報いるため、ホテトルを奢る約束をしていたとは。。

その約束、けっきょく果されたのでしょうか。12月27日の記録には奢ったことは書かれていません。

個性も一つの型

三田紀房『個性を捨てろ!型にはまれ!』(大和書房、2006年)を読んでいます。内容はタイトルの通り、成功したいなら自分の個性など捨て、型にはまりなさい、というもの。三田先生が『ドラゴン桜』の作者であることを思うと、なるほどと思えるタイトルですね。

個性と型。私自身、心得ているつもりではありますが、いつも実践できているかというと、不安な時もあります。

もうかなり前、新聞の全面広告で十八代中村勘三郎の格言が引用されていました。たしか「型があるから型破りなのであって、型がないのは形無しってんです」などと書かれていたはずです。どんな会社の広告だったかは、もう覚えていませんが、なるほど面白い、その通りだと思いました。本書にも、同様の意味のことが書いてあります。

松岡正剛は「守破離」について、「守って型に着き、破って型へ出て、離れて型を生む」と書いていました。いかにも松岡さんらしい、深遠そうでよく意味が分からない言葉ですが、型を破った先にある個性的な自己流も一つの型なのだ、ということでしょうか。

三田先生はべつのところで、面白い漫画はだいたい「対立と和解」が描かれていると言っていました(本書にも書いてあります)。売れ筋の一つの型だということでしょう。

佐伯一麦と西村賢太6

「滋味深し」

西村賢太『一私小説書きの日乗 野性の章』(KADOKAWA、2014年)の2013年12月28日の記録を見ると、西村が佐伯一麦の長篇『渡良瀬』を読んだことが分かります。

佐伯一麦氏の最新刊『渡良瀬』(岩波書店)を読み始める。二十年前に『海燕』誌に連載し、掲載誌の廃刊に伴い中絶していた長篇を、今般完成させたものだとか。

翌29日の記録では触れられていませんが、30日の記録で再び書かれています。

 午後一時起床。入浴。
『渡良瀬』読了。滋味深し。

西村は佐伯の『還れぬ家』や『光の闇』を読んだことも「日乗」に書き、それぞれ一定の評価をしていました。

『渡良瀬』は2013年12月26日に岩波書店より発行された長篇で、その後2017年に新潮文庫に入りました。佐伯は私小説のことを「自画像」と言っていますが、長篇『渡良瀬』はまさに巨大な佐伯の自画像と言えるような作品です。装飾のない文体は、どこかじんわりと染みわたってくるものがあり、「滋味深し」という西村の言葉は的確だと思います。

首位陥落

現代作家の知名度を物語る

私はこのブログをスマホアプリでも管理しています。アプリでは記事下に「注目記事」として、このブログの人気の記事が五つ掲載されています。PCのブラウザ上の管理ページでは人気記事がアクセス元のサイトごとに分析されており、総合ではどの記事がトップなのか分かりませんが、アプリで見ると、2018年9月15日に書いた「阿Qと精神勝利法」が、長らく首位に君臨し続けていました。

しかしこのたび、西村賢太と西村作品に登場する実在の新聞記者・葛山久子のことを書いた記事「西村賢太と葛山久子」がトップに浮上し、長年(というほどではありませんが)不動だった首位をついに陥落させました。

「阿Qと精神勝利法」は、魯迅の『阿Q正伝』のどうしようもない主人公が使う「精神勝利法」という思考法を紹介する記事です。この記事は読者がTwitterに連携してくれたこともあり、また何よりGoogle検索からのアクセスが多かったため、トップページに次ぐアクセス量でした。正直に言って、それほど多くの人が興味を持つ記事だとは思えなかったのですが、とにかくずっと、このブログのトップ記事でした。

一方、「西村賢太と葛山久子」は、Google検索に限らず様々なサイトからのアクセスがあります。西村賢太という、芥川賞を取り、純文学の中では何かと話題になった現代作家の知名度の高さが、アクセス数を押し上げたものと思います。また私は、西村と佐伯一麦接触と関係性を調べるために、西村の『一私小説書きの日乗』シリーズに当たり、調べた結果を書いた記事が読者によってTwitterに連携されたことが数度ありました。このことは、このブログの西村関連の記事全体のアクセス数を押し上げたようです。「西村賢太と葛山久子」がトップになったのは恐らくその結果ですが、数ある西村関連記事の中でなぜこの記事が最も見られるようになったのかは、よく分かりません。

ちなみに、西村の日記である『一私小説書きの日乗』シリーズについて、各書に掲載された日記の期間について調べた記事もランキングに入っていました。調べて書いた記事が読まれるのはうれしいことです。