杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「私小説家とは何か?」

私小説家=正直な人?

日本文藝家協会編『新茶とアカシア』(光村図書出版、2001年)を、拾い読みしました。

本書はおかしなタイトルですが、2001年に発表されたエッセイの中から優れたものを日本文藝家協会が選りすぐったもの。著者は、阿川弘之金重明、岩橋邦枝、高橋昌男、嵐山光三郎古山高麗雄坂上弘庄野潤三吉川潮別役実司修、高田宏、山崎正和、山本道子、小林恭二松本健一清水邦夫佐伯一麦大岡信有吉玉青、又吉栄喜原田康子養老孟司野田秀樹三浦哲郎水木しげる川西政明、大庭みな子、石毛直道中野孝次リービ英雄、増田みず子、原研哉阿部牧郎古井由吉、なだいなだ、川村湊林京子白石一郎佐々木幹郎落合恵子、小川国夫、池内紀藤森照信平出隆新井満津島佑子安岡章太郎石牟礼道子、南条範夫、野見山暁治横尾忠則桃井かおり日高敏隆、馬場あき子、富岡多恵子外岡秀俊松山巌島田歌穂黒井千次竹西寛子小沢昭一内館牧子新藤兼人清水哲男木下順二、秋山駿、E・G・サイデンステッカー、北杜夫川上弘美三木卓

なお書名の『新茶とアカシア』は、三木卓のエッセイのタイトルから取ったもののようです。

私が読んだものの一つが秋山駿の「私小説の力」というものですが、これがわりあい面白かったです。

私小説の力」は日経新聞11月19日に掲載されたもので、秋山が、重信房子の高校時代の文章を読む機会があった、というエピソードから始まっています。

重信の、日本赤軍リーダーとしての行為よりも、高校時代の文章に表れている素直さに、秋山は感銘を受けています。そして、こういう素直な心の持ち主が赤軍リーダーになるまでには、人としての「志」が動力になって進んでいったのだろうと推測しています。

しかし秋山は犯罪に走ることは善しとしておらず、志を立てて進む動力には、進もうとする力を抑制する力、忍耐も必要だと述べています。そして、「我田引水になるが、文学とは、志を樹(た)てて、そして忍耐の道を往くものだ」と書いています。

 すこし前に、青森県近代文学館で三浦哲郎の文学をめぐる催しがあり、私も三浦文学の魅力を話しに行った。
 三浦哲郎は、私小説家である。では、私小説家とは何か?
 小林秀雄がある対談で正宗白鳥について語ったとき――私小説家の意味については、もう一度考え直した方がいいな、私小説家は「正直な人である」というのがいい定義ではないか、といっているが、私も同感である。

その上で、私小説家には「凄さ」があると述べ、「正直な人として生きるために必要とした、おびただしい『忍耐』の凄さである」と書いています。

エッセイは、林京子野間文芸賞受賞作『長い時間をかけた人間の経験』や、自分が勤務している女子大の学生とのエピソードなどに触れ、21世紀には前例のない文章が出現することを期待しているところで終わります。

この後半はともかく、重信房子のことから「私小説家とは何か?」という問いに持っていく流れは見事だと思いました。

また、私小説家は正直な人、という小林秀雄の見解に同意しているところ、正直な人であるためにすごい忍耐を必要とする、というところは、私自身も、たしかにそうだ、と思いました。

私小説家=正直な人。かなり大雑把な括り方で、私小説家以外にも正直者はいるだろうとも思いますが、的を射ているといえるのではないでしょうか。まぁ…どうとでも解釈できそうというか、分かっているのかいないのかよく分からない、いかにも小林秀雄が言いそうな言葉ではありますがね。

映画『ユージュアル・サスペクツ』を観た。

母が絶賛した映画

1995年のアメリカ映画『ユージュアル・サスペクツ』を観ました。

監督はブライアン・シンガー、脚本はクリストファー・マッカリーです。いずれも、知りません。

出演はガブリエル・バーン、スティーヴン・ボールドウィンベニチオ・デル・トロ、ケヴィン・ポラック、ケヴィン・スペイシーなど。ケヴィン・スペイシーはこの映画でアカデミー賞助演男優賞を受賞しました。

この映画、かねてタイトルは知っていて、観たいと思っていましたが長らく観る機会がありませんでした。私には、そういう映画が多いのです…。

どうしてタイトルを知っていたのかというと、母親がたしか日本公開時に観て、絶賛していたからです。また、映画学校でも数度タイトルを耳にしたような気がします。恐らく、サスペンス映画の名作として知られていたのではないかと思います。

この年末年始、ちょっと時間に余裕があったので映画でも観ようかと思い、DVDレンタル屋をウロウロしていたら見つけたので、観ることにしました。

ユージュアル・サスペクツ』あらすじ

「カイザー・ソゼ」という、マンガにでも出てきそうな伝説の悪党(ギャング)がいて、そのソゼと仲間が行った犯罪の一部始終を描いたエンタメ作品です。一連の事件で唯一、無傷で生き残った、手足に障害があるキントという名の男が警察の取り調べを受けて語る話に沿って映画が進行するという、ちょっと凝った作りになっています。

キントには前科があり、映画のメインエピソードであるソゼの犯罪計画が行われる前、別の事件の容疑者として警察に連れてこられます。警察署にはキントの他にも四人の前科者が集められ、事件の関係者に犯人を見分けさせる「面通し」が行われました。計五人の前科者は、容疑者としていつも名が挙がる人物(ユージュアル・サスペクツ)であり、これが映画の題名の由来になっています。

その後、五人はいわば犯罪グループとなり、やがて大きな事件に巻き込まれていき、キントを除く全員が死亡。キントはその経緯をひととおり供述した後、警察署を後にします。

取り調べをした刑事は、すでに警察署を去ったキントの供述がどうやらデタラメだったらしいことを察知し、慌ててキントを追いますが、キントは見つかりません。

事件にはもう一人、生き残った男がいました。この男はソゼの顔を見ていましたが、大傷を負って病院に搬送。警察は、この男の証言を基にソゼの似顔絵が描いていました。

キントが警察署を去ったのとほぼ同じ頃、似顔絵が警察署にファックスで届けられます。描かれていたのは、キントのような顔でした。

つまり、このキントがソゼであり、警察の取り調べを上手くすり抜ける供述をして、身柄拘束を解かれて逃げきったのです。

シナリオと演技が巧み

要するに悪人が正義側の警察を出し抜く話で、ある意味では痛快な作品です。かつてソゼはギャング同士の抗争の過程で自分の妻子を殺したことがあるらしい、胸糞系の極悪人です。私としては最後に警察に撃たれてほしかったですが、まぁ悪人が勝者になるストーリーも、エンタメとして面白いといえば面白いです。

シナリオは回想を巧みに織り交ぜています。上手い。悪役が勝つ話としては『オーシャンズ8』と同じですが、あれよりよっぽど面白かったですね。

あと、ケヴィン・スペイシーが演技が上手い。スペイシーといえば『アメリカン・ビューティー』『セブン』『L.A.コンフィデンシャル』などが懐かしいですが、最近はぜんぜん観ていません。

三人称 鉄塔(賽助)『手持ちのカードで(なんとか)生きてます。』

著者は同年

三人称 鉄塔(賽助)の『手持ちのカードで(なんとか)生きてます。』(河出書房新社、2023年)を読みました。

本書は言わばエッセイですが、通常のエッセイとは違います。河出書房新社の「14歳の世渡り術」シリーズの一冊で、いうなれば中学生の男女に向けた人生指南書のようなコンセプトなのでしょう。世の中を斜めに見たり批判したりするような「毒」はありません。

とはいえ、著者が私と同年ということもあり、また同じく元小説家ワナビでもあって(私は「元」ではありませんが)、しかもどうやらこじらせていたらしい形跡も読み取れて(私は過去形ではありませんが)、読んでいていろいろと考えさせられました。

なお「14歳の世渡り術」シリーズは三人称 鉄塔(賽助)の他に、雨宮処凛橘木俊詔石原千秋永江朗などが書いています。

ひきこもりからゲーム配信者、小説家へ

著者は、「三人称 鉄塔」という名前でゲーム配信者として活動し、「賽助」という名前で小説家として活動しています。小説は『はるなつふゆと七福神』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年)、『君と夏が、鉄塔の上』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2018年)の二冊を出しているので、次は小説を読んでみたいと思います。

さて、本書は44歳の鉄塔さんの自伝的エッセイともいうべきものです。鉄塔さんが子供の頃から抱いていた欲求は「目立ちたい」で、演劇部に入ったり大学卒業後に就職せずコント活動をしたりします。しかし、周囲の人は活動が少しずつ広がっていくものの鉄塔さんは広がらず、やがてひきこもりになります。

この、ひきこもりになる辺りから、ゲーム配信者と小説家になる道が始まったようです。ちなみに鉄塔さんは埼玉県出身で、玉川大学芸術学部を卒業後はフリーターなどをしながら夢を追いかけていましたが、実家に住んでいたので、即座に危機的状況になる可能性は低かっただろうと思います。

ニコニコ動画でゲーム実況を知り、自身も動画投稿を始めたのが2009年頃。その後、のちに一緒に「三人称」を結成する仲間たちと出会い、2011年に「三人称」を結成しました。小説はその間ずっと書き続けていたようで、『はるなつふゆと七福神』が第1回「本のサナギ賞」を受賞したのが2014年です。

それに比べて俺は…

こうして時系列を整理してみて感じるのは、一種の「悔恨」です。鉄塔さんが人生を切り開いていった2009年頃から2014年までの間、俺はずっと会社員としてライターをやったものの、肝心の物書きとしての人生は切り開けなかったのだ、と。とはいえ、過去を悔やんだって仕方がないことくらい私もわかっているので、この悔恨の気持ちはそんなに深く胸に食い込んでくるわけではありません。

とはいえ、本書の冒頭にある、鉄塔さんの年表とともに流れている「メンタルバロメーター」が、2009年辺りを「UNHAPPY」の底辺としてそこから2014年辺りまで上昇し続け、以降現在に至るまで「HAPPY」の高い位置をキープしているのを見ると、それに比べて俺は…と、暗澹たる思いがしないではありません。

私のメンタルバロメーターを振り返ると、恐らく2008年くらいまでが底辺で、そこは鉄塔さんと似ているかもしれません。2009年以降は、普通の生活は維持できていましたが…まぁ、いろいろ辛いことがありました。HAPPYの方へ上っていったという実感は、残念ながらないですね。それどころか、UNHAPPYの方へ下がったと思うことが多々ありました。

手持ちのカードで勝負するしかない

「経験は、いずれ必ず生きてくる」と、鉄塔さんは書いています。この言葉が真実なら、私のメンタルバロメーターが低かった時期の経験は、今後生きてくるのでしょう。いや、私自身すでに、辛かった時期があったから小さな幸運を喜べるようになったと思っていますし、いかなる経験も書き物や表現に生かせるものだと、体験を通じて感じています。しかし、払った分を取り返したとはぜんぜん思いませんね。

さて。私の辛かった経験は、今後人生を盛り返していく力になるのでしょうか。恐らくそれは、私自身の選択と努力によって左右される気がします。

本書には、スヌーピーの言葉“You play with the cards you're dealt”(与えられたカードで勝負するしかないんだ)に鉄塔さんが感銘を受けたことが書かれています。

不思議なことに、私はここ数年でこの言葉に数度遭遇しています。ライターとしてインタビューした中にこの言葉を座右の銘にしている人が数人いましたし、今回はこの本で見ました。

私もこの言葉に感銘を受けました。過去の経験を小説などに生かすには、過去の経験という「配られたカード」で勝負するしかないのでしょう。私のメンタルバロメーターが思うように向上しなかった理由の一つは、手持ちのカードが気に食わず、もっといいカードが回ってこないかと期待してばかりいたことだと思います。

「足るを知る」とか、スケールの小さなことを言うつもりはなく、高みを目指して貪欲に行きたいものですが、手持ちのカードを嘆いても仕方ない、手持ちのカードで勝負するしかない、これは真実ではないかと思っています。

不思議な親近感

本書は、鉄塔さんが同年ということもあってか、感銘を受けたというよりは、共感するところが多かったですね。

また同年というだけでなく、鉄塔さんには気質の部分でも親近感を抱きました。鉄塔さんは恐らく、いわゆる「HSS型HSP」の気質の持ち主ではないかと思うところがあり、また前述のとおり「こじらせ」だったところなどにも、自分と近いものを感じます。

島本理生『夏の裁断』

書き下ろしの短篇を含む文庫オリジナル

島本理生の小説集『夏の裁断』(文春文庫、2018年)を読みました。本書の最初に収録されている「夏の裁断」の感想はこのブログの一つ前の記事で書きましたが、本書には同作の後日談となる書き下ろしの短篇「秋の通り雨」「冬の沈黙」「春の結論」が収録されています。「夏の裁断」に関連がありながら、同作の単行本には入っていない書き下ろし三篇が読めるこの文庫は魅力ある一冊といえるでしょう。

というわけで、「夏の裁断」の感想は一つ前の記事に書きましたが、この記事では書き下ろしの三篇を含む全体の感想を書きたいと思います。

以下、ネタバレを含む内容になっているので、未読の方は承知の上でお読みください。

萱野千紘の再生物語

小説集『夏の裁断』は一言で言うなら、女性作家である主人公・萱野千紘が柴田という男性編集者との関係に深く傷つき、その後再生する過程を描いた小説集です。

「夏の裁断」

最初の「夏の裁断」は、柴田との関係で傷つく過程が描かれた中篇です。この作品のことは前回書きましたので詳細は省きますが、主人公の千紘が、女を翻弄せずにはいられないといった性格の、人格障害があるのではないかと思わせる編集者・柴田の身勝手な言動に消耗する話です。本作は恐らく島本理生私小説ですが、抗いがたい、柴田の引力のような力に千紘が翻弄されて苦しむ姿は、男女関係の辛さの本質を抉り出しており、重い読後感があります。しかし、これが文学というものではないかと私は思います。

「秋の通り雨」

二作目の「秋の通り雨」は、柴田との関係を断ったものの、傷が完全には癒えていない千紘が、いくたりかの男と逢瀬をして、その一人である清野(せいの)との関係を深めていく話。舞台は「夏の裁断」と同様、千紘の死んだ祖父の家がある鎌倉で、清野とは焼き鳥屋で会い、千紘はその日のうちに清野とセックスをします。

清野はスーツ姿で登場し、明らかに会社員なのですが、詳しい素性はおろか、どんな仕事なのかもよく分かりません。外見は少年っぽさを残しているものの、詳細には描写されておらず、印象は薄い。正直に言って、小説の登場人物、なかんづくキーパーソンとしての魅力は感じられません。

千紘は、付き合いはしませんが、清野と何度も会います。清野は、外見や中身だけでなく、話す内容も分かりづらい人物です。「もともと愛とか恋とか、そういうのはあまり必要としていない人間なんだと思います」などと言い、千紘に対する思いを明確に示すこともありません。千紘によく連絡をし、何度も会ってセックスもしますが、それ以上の関係にはならないのです。とはいえ、単に体目当てというわけでもなく、優しくもしてくれます。ある意味では柴田のような身勝手な男ですが、千紘は柴田のように消耗させられることはなく、不思議な温かさを感じます。

そして、柴田との辛い思い出を忘れていたことに気づいた千紘は、東京に戻ろうと決心をします。

「秋の通り雨」は、清野との逢瀬が淡々とした筆致で描かれていて、それがわりあい平和なものであることもあり、「夏の裁断」ほどのインパクトはありません。

「冬の沈黙」

三作目の「冬の沈黙」は、東京に引っ越した千紘が、清野と別れようと決心するまでを描いています。

東京に移った千紘は、作家業を再開し、以前に肉体関係があった男と会って話したり(セックスはしない)、柴田との関係に悩んでいた頃に相談していた教授に会ったりします。

もちろん清野とも会いますが、清野とのどっちつかずの関係に耐えられなくなり、「私、もう、きついです」と言って、もう一歩踏み込んだ関係になろうとします。そうとは書かれていませんが、平たく言えば、きちんと付き合いたい、という要求をするのです。

清野は、またもや曖昧な返答をして、踏み込もうとする千紘を拒絶して千紘の家から去ってしまいます。千紘は泣きじゃくり、清野に心の中で別れを告げます。

「冬の沈黙」はごく短い作品ながら、清野との別れを決心するあたりで、千紘は前進しながらもまた不幸になるのか、といった思いをさせられるところが印象的です。

私は、けっきょく男女の関係というのは平等とか公平とか言うことなどできず、傷つけ、傷つけられることの繰り返しなのかな、と思いました。

「春の結論」

最後の「春の結論」は、千紘が清野とけっきょく別れず、曖昧なところを残しながらも関係を継続することにする過程が描かれた話です。

千紘は出版社の五十周年の企画で東アジアの国を舞台にした小説を書くことになり、現地に滞在するため英会話を習うなどの準備をします。

ここで一つ印象的だったのは、千紘が英会話の教師であるアレシアから「あなたは喋っているときに考え込むくせがある」と言われ、短くてもいいから言葉のキャッチボールをするよう指摘されるところです。特に印象に残る場面ではありませんが、私は、こういうところに千紘の心の傷や作家らしい気質が表されているのではないかと思いました。

清野はしばらく出てこず、千紘は、ある行動に出ます。過去に千紘に性暴力を振るった磯和という男に会いに、地方の街に行くのです。「真珠で有名な海辺の町」とあるので、鳥羽かなと私は思いました。

千紘は、磯和がいるダイニングバーに行き、店員の母娘がいる前で、磯和の過去の行為を曝露します。これは千紘にとっては決死の行動でしたが、認めさせ謝罪させるといった展開にはならず、千紘は曝露だけして店を出ます。

その後、清野に連絡を取って会いますが、磯和とのことを話したりはしません。逆に、清野には「私の中にかたく守られた領域があることに対する、礼儀正しさ」があることに気づきます。清野とはいつか別れるかもしれないけれど、それは今ではないと思うに至ります。別れずに済んだわけです。

後日、清野に誘われ、ある建物の解体現場に行きます。詳しくは書かれていませんが、どうやら清野は孤児院か何かを思わせる「施設」の「卒園生」であることが分かります。そこのOBとして、今は仕事以外の時間にボランティアとして働いているらしい。

このくだりは、これまで分からなかった清野の素性がわずかに明かされる場面です。清野が自分の内部を千紘に明かしたという意味を持つので、二人の仲は一段深まったと解釈できます。

最後は、千紘が小説の仕事のために日本を発つ場面です。新たな人生の門出のように描かれており、全篇を通して最も明るい箇所になっています。

傷つけ合い、痛みを抱えて生きていく

先に「萱野千紘の再生物語」と書きましたが、本作は決してハッピーエンドではありません。いや、ハッピーエンドと言えるのかもしれませんが、その後ろには癒えていない傷があまりに多くあり、今後いつその傷がまた開かれるかも分からないという不安を感じさせます。

傷を抱えているのは清野も同じであり、さらに深く考えると、柴田だって抱えているのかも知れません。

けっきょく、人間というのはいつでもどこでも傷つけ合い、その痛みを抱えて生きるのです。『夏の裁断』は広く読まれるべき小説だと思います。

島本理生「夏の裁断」

第153回芥川賞候補作

島本理生の小説「夏の裁断」を読みました。『夏の裁断』(文春文庫、2018年)所収で、初出は「文學界」2015年6月号です。

本作は同年上半期の芥川賞候補となりましたが、受賞したのは又吉直樹「火花」と羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」です。島本理生は、たしかこの後「エンタメ小説を書いていく」といった宣言をX(当時はTwitter)でつぶやき、長篇『ファーストラヴ』(文藝春秋、2018年)で第159回直木賞を受賞しました。

作品を貫く冷たい金属感

さて本作。

ストーリーは、プロの小説家である萱野千紘が出版社の編集者である柴田と恋愛めいた関係になるものの、柴田の曖昧で身勝手な言動に翻弄され、精神的に擦り減っていくばかりか、柴田に隷従させられるまでになる、という異常な話です。

柴田の身勝手さはナルシシストということで片付けられるレベルではありません。専門的なことはまったくわかりませんが、これは回避性愛着障害なんじゃないかなと思いました。

千紘は柴田との関係に深く傷つきますが、最後は柴田と正面から向き合い、決着をつけるので、破滅するまではいきません。

なお本作のタイトルは、鎌倉にある亡くなった祖父の家で、学者だった祖父の蔵書を電子化するため、夏の間、断裁し続けるというサブストーリーから取られたものです。しかし、冒頭で千紘が柴田の手をフォークで刺すシーンや、柴田が異常に冷淡な男として描かれているところなどがあり、本作の雰囲気は「裁断」という言葉が持つ冷たい金属感に合っている感じがしますね。

島本理生私小説では?

すばらしい作品。

それにしても、主人公が女性作家であるところからして、恐らく本作は島本理生私小説ではないかと思います。なお私は本作について島本理生が語ったものを読んでおらず、そういうものがあるのかどうかすら現状まったく知りません。

私は瀬戸内寂聴の「夏の終り」という私小説が好きですが、本作の、男の抗いがたい引力に引き寄せられ、ずぶずぶと沼にはまりこんでいくような感じは、「夏の終り」で描かれた男女関係の泥沼を思わせる重さがあるように思います。

また、本作には千紘が過去に年上の男から性的暴力を受けたという話が出てきます。その話が、島本の『あなたの呼吸が止まるまで』(新潮文庫、2011年)に描かれたエピソードを思わせ、興味深い。『あなたの呼吸が止まるまで』も恐らく私小説なので、二つの作品はつながっていると考えられるのです。こういうところが、私小説を読む醍醐味の一つなのです。

蔵書始末記8 積読本

100冊超の積読本を手放した

買ってから長らく「積ん読」になっていたが、このたび部分的に読んだ。どうして読んだかというと、買った時から目次の中に気になっていた箇所があり、今回、その箇所に関連することを考える機会があったからだ。そのことは、目次が気になった時から半ば予期していた。「積ん読」は私にとって、しばしばそういう「後で必ず読むことになる確信」を伴うものだ。

かつては気取ってそんなことを言っていた私ですが、今回、多数の積読本を手放しました。

「後で必ず読むことになる確信」は、積読していた頃にはありましたが、その多くの本を、読む前に整理するべき事態になり、結局、読まずに手放すことになった次第です。

手放した積読本は、優に100冊を超えました。100冊以上の積読本を読まずに手放したことには、すっきりした気持ちもありますが、よくもまぁこんな無駄遣いをしたもんだな、という呆れもあります。いや、呆れの方がはるかに大きいし、呆れだけでなく、俺はなんちゅう馬鹿だったんだ…という悔恨に似た反省もあります。しかし、ではこれほどの積読をした原因は、いったい何だったのか…

理由は「いつか読みたい」

人が積読をする理由は、要するに「いつか読みたいから」でしょう。

(ネットを含む)書店をうろうろして、面白そうな本を見つけて買い、帰宅してぱらぱら目次などを読むものの、腰を据えて全篇読む気はなく、本棚に積んでしまう。ただし、胸の内では「いつか読みたい」という、願望のようなものを抱いているのです。

まだ読まないから積んどく。でもいつか読みたい。いつか読みたい。いつか。いつか…。

私が100冊超の積読をしたのは、だから「いつか読みたい」願望が100以上あったことになります。

「いつか読みたい」が100程度でストップすれば、私のこの先の人生は「いつか読みたい本」を100冊片付ければ、新しい展開を期待できます。しかし、積読本が片付けるより先に増えていくことは、これまでの経緯から明らかです。とすると、「いつか読みたい本」の数は増え続けるので、私のこの先の人生から「いつか読みたい」が消えることはありません。

山積した「課題図書」がもたらすもの

「いつか読みたい本」は、言い換えると「課題図書」です。私自身、学びたい気持ちが強いので、積読本は自ら選定した課題図書のようなものといえるでしょう。

だから積読本が100冊超あったということは、いうなれば100以上の課題が蓄積している状態でした。

今にして思えば、自分の生活空間に「課題」が山積している状態は、精神的に決して良くなかったですね。いつでも「課題をやらなくてはならない」という妙な義務感のようなものがあって、負担になっていました。

しかも私の場合、そういう状態にありながら、積読本は減るどころか増えていったのです。

これは「やらなくてはならない課題があるけどやらない。けど学びたい気持ちは止まらないから新しい課題図書を買う。でもそれも読まない」ということです。

やるべき課題が目の前にあるけど、取り組まない。それどころか課題はどんどん増えていく。こうなると、たまに時間ができた時も、何から手を着けていいかわからず途方に暮れます。私は、次第にそれら積読本から目を背けるようになっていた気がします。

部屋には多くの課題図書があるけれど、それを見ないようにして暮らす生活。これが精神的に良いはずはないのですが、私はこの悪循環ともいうべきものにはまりこんでいました。しかし私に限らず、積読本が減るどころか増える人は、同じように悪循環にはまりこんでいるのではないでしょうか。

教養人への憧れ

私の「いつか読みたい」への止まらない欲求の背後には、教養人への憧れがありました。すでにこのブログに何回か書きましたが、私は本を買い、書棚に置いておくことに満足していたところがあったように思います。

本を買い、書棚に置けば、少しだけ教養人への憧れが満たされ、満足を得られます。しかし、本当にその本に書いてある知識を吸収したわけではありません。知識を得たいならその本を読んで覚える必要があり、教養として活かしたいなら、覚えた知識を実践する必要があるでしょう。

もちろん、その気持ち自体はありました。いつか読みたい。いつか…。しかし「いつか」は来ず、ただ新しい本をせっせと買い込むのを繰り返していたということです。

「いつか」はない

「いつか」が来ることなどまずないので、積読をしている人はとっとと売るなり捨てるなりして手放すのが良いでしょう。

ただ、そんなことを言っている私ですが、このたび全ての積読を完全に手放せたわけではありません。ネックとなるのは、やはり古書です。古書は一度手放してしまうと再入手しづらいケースがあるからです。

神保町でもアマゾンでも、同じ古書をもう一度入手するのは難しいケースがあり、最悪の場合、読みたくなったら国会図書館に行くしかありません。それはあまりに手間なので、読みたい気持ちの強い古書はとっておきます。

けれども、今後は段階的に整理して、大事な古書も順次手放していきたい。正直にいって、これは時間がかかりそうです。断捨離を徹底的にやった結果、本当は断捨離したくなかった卒業アルバムを捨ててしまい後悔したという話を聞いたことがあり、私はそうはなりたくないなと思うからです。

映画『ロスト・キング -500年越しの運命-』を観た。

実話を基にした映画

映画『ロスト・キング -500年越しの運命-』を観ました。

2022年のイギリス映画。日本では今年9月22日に公開されました。

映画館で新作を観たのは久しぶりで、しかも家族に付き合う形でない観賞となると、もう何年ぶりのことだか…。『星の子』以来か。どうしてそんな貴重な機会にこの映画を選んだのかは、後で述べたいと思います。

監督はスティーヴン・フリアーズというベテランの監督ですが、他の監督作品を私は恐らく観ていません。主演はサリー・ホーキンスという女優で、『シェイプ・オブ・ウォーター』という映画や他にもいっぱい出ているようですが、私はこのたび初めて観たと思います。ホーキンスは1976年生まれなので、私の3歳上になります。

映画は、イングランド王リチャード三世が死んだ15世紀から500年以上も不明だったリチャード三世の埋葬場所が2012年に発見されたという実話に基づいた作品です。

リチャード三世は悪王ではなかった?

本作について書きたいことはたくさんありますが、まずはリチャード三世への興味からこの映画を観ようと思ったことを書きたいです。

リチャード三世というと、まずシェイクスピアの戯曲があります。私は恥ずかしながらこの作品を未読ですが、作品内でリチャード三世は悪王として描かれているらしい。Wikipediaを参照すると、悪王の評判はテューダー朝によって着せられた汚名であるとして、これを雪ぎ、名誉回復を図ろうとする歴史愛好家がいるらしいです。

ジョセフィン・テイのミステリ『時の娘』(ハヤカワ文庫、1977年)は、リチャード三世が本当に悪王だったのかという問いの答えを歴史書をひもといて推理する作品。私はたしかこのミステリのことを、小谷野敦『リチャード三世は悪人か』(NTT出版、2007年)を通して知ったと記憶しています。それでこの小説を読もうと思って買いましたが、一時期は我が書架の一隅を占めていたものの、読まずに売ってしまいました。

私が『時の娘』や『リチャード三世は悪人か』に興味を持ったのは、恐らく十年くらい前。私は当時、ゲーテの戯曲『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』に関する評論を、当時所属していた同人誌に書こうとしていました。ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは中世ドイツに実在した騎士で、「私闘(フェーデ)」という自力救済を口実に強盗や追いはぎを繰り返した乱暴な男だったそうですが、ゲーテは中世の法制度を研究する過程で知ったゲッツを、悲劇の英雄として美化して戯曲の主人公にしました。

私はこのような、史実と創作の間に起こる価値転換みたいなものに興味を持ち、いろいろ調べるうちに『リチャード三世は悪人か』に辿り着いたのだと思います。詳しい経緯は忘れましたが、たしかそんな流れでした。

結局、私はいろいろあってゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンとゲーテの戯曲に関する評論を完成させられませんでした。時間が経ち、評論を書く過程で興味を持った『リチャード三世は悪人か』や『時の娘』への関心も薄れていきましたが、リチャード三世は悪王ではないという説があることは頭の片隅に残っていました。

そしてこのたび、映画館に行く余裕ができたので適当な作品を探していたら、この『ロスト・キング -500年越しの運命-』を知って、よし観てみるかと思った次第です。リチャード三世に関する記憶が関係したのは言うまでもありませんが、事実を追究する、という主人公の生き方に共感や憧れもありました。

リチャード三世とハンチバック

主人公はフィリッパ・ラングレーという会社員の女性。会社では新しいプロジェクトチームの一員に選ばれず、夫とは不仲であるだけでなく夫は外に女をつくってもいます。仕事も家庭も不如意な、辛い状況の女性ですね。そのラングレーが、息子とシェイクスピアの『リチャード三世』を観たことをきっかけに、リチャード三世に興味を持ち、埋葬場所の発掘と名誉回復に貢献する、というストーリーです。ちなみに、プロジェクトチームに選ばれなかった原因の一つらしいのが、筋痛性脳脊髄炎という病気です。

また、リチャード三世は脊柱が曲がる脊柱側弯症を発症していましたが、映画ではそのことを「ハンチバック」という言葉で表していました。ハンチバックといえば、市川沙央の芥川賞受賞作が思い浮かびます。

さて、ラングレーの人生は、息子と観た『リチャード三世』によって大きく変わったわけです。それからのリチャード三世顕彰は決して楽ではなく、埋葬場所の発掘資金もクラウドファンディングで集めるなど、かなりの苦労がありました。さらに、埋葬場所を発見した功績も、最初は、発掘事業に少ししか協力しなかったレスター大学にかすめ取られてしまいます。

映画の最後に流れる字幕の解説では、ラングレーが正当に評価されたことが書かれていましたが、それは映画のストーリーよりも何年か後のことだったようです。

それでも歴史の真実を真摯に追究し、学者や大学の人に批判的に見られながらも自説を曲げずに取り組むラングレーの姿には胸を打たれました。

学問の喜び

しかし、明らかにシナリオに瑕があると思った箇所が一つありました。『リチャード三世』の観劇をした時のラングレーの様子が、その後の破天荒な顕彰作業につながるような衝動を感じさせなかったことです。

映画の設定としては、ラングレーはリチャード三世に「正当に評価されていない人」という、自分との共通項を見出したことが、顕彰作業の動機と情熱につながったわけですが、私が観た限りではそのシーンにそのような説得力はありませんでした。

また、ラングレーは大学は出ていないようで、失礼ながら、映画で観た限りでも中世の史実の追究ができるような学問的な素地のある人には見えませんでした。そういう人がこれほどの仕事を決意し、実際に行動に移したことが、ちょっと納得しにくかったと言えなくもないです。とはいえまぁ、これは実話なので、その点は否定のしようがないわけではありますが。

このように、いくつか疑問の残る映画ではありましたが、実話を題材にした映画ということもあって、アメリカのエンタメ映画のようなヘンテコな設定も展開もなくて安心して観られたし、面白かったですね。

また、月並みながら、やっぱり学問や研究というのは知的営みとしていくつになっても重要だし、その喜びが人生を充実させるのだなぁ、と思いました。ちなみに、ラングレーが患っていた筋痛性脳脊髄炎という病気は、慢性的なストレスが原因らしい。これは単なる想像ですが、やはりラングレーはもともと知的で聡明な人なのだと思います。