杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

宮崎駿『風の谷のナウシカ』

風の谷のナウシカ』と私

宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』を読みました。

アニメージュコミックスのワイド判(徳間書店、1995年)で、全7冊。手元の第7巻の奥付を見ると、2023年7月15日116刷となっているので、今も売れ続けているロングセラーであることがわかります。

映画『風の谷のナウシカ』(1984年)が公開された頃、私は幼稚園児だったので映画館では当然観ていません。私が最初に『風の谷のナウシカ』を観たのは恐らく1990年以降で、「金曜ロードショー」か、それを録画したビデオなどだと思います。

映画とは別に長篇漫画が存在するのを知ったのは、ずっと後のことです。たしか学生時代に、今回読んだのと同じアニメージュコミックスワイド判の全7冊セットを、これまたたしか、ヴィレッジヴァンガードで買ったと記憶しています。

私の学生時代というと、ちょうどワナビをこじらせかけていた頃で、思い通りにならない現実に対する苛立ちと焦燥につぶされそうでした。漫画『風の谷のナウシカ』は、第1巻の途中あたりまで読んだまま抛り出し、何か他のことに意識を持っていかれてしまい、そのまましばらく放置しました。後年、たぶんお金に困ったとか、書物を整理したいとかの事情で、読まないまま売ってしまったと記憶しています。

ところが最近、あるビジネス系ユーチューバーのチャンネルで、この漫画がとても奥深い、深遠な世界を描いていると聞き、やっぱり読んでみようという気持ちが出てきたのです。それで再び大人買いし、このたびようやく全巻読破したという次第です。

腐海」という浄化システム

風の谷のナウシカ』のあらすじやテーマについて、改めてこの記事で細かく説明する必要はないと思うので割愛させてもらいます。一言で言えば「『人間の業と環境汚染』の問題提起および宮崎駿自身のメッセージ」ということでしょう。細かく見ると、その大テーマには色んな小テーマが付随していて、宮崎駿らしい壮大な世界がつくられていると感じます。

風の谷のナウシカ』については色んな論者や批評家が色んなところで色んなことを言っていますが、私はスタジオジブリ・文春文庫編『ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ』(文春ジブリ文庫、2013年)というガイドブック的な本を持っています。全部読んでいませんが、巻頭に立花隆の寄稿がある面白い一冊だと思います。

その中に、広島大学大学院准教授の長沼毅による「腐海の生物学」という、作中の菌類の森「腐海」を考察した文章があります。腐海の機能と構造を、生物学的にアプローチする試みで、実に面白い。

腐海は、汚染された世界をきれいにする浄化システムの役割を持っています。しかし、現実の世界でも、汚染物質を分解するバクテリアと、それを食べる原生生物からなる微生物集団を使った「バイオレメディエーション」が実際に行われているそうです。ただし、放射能汚染については現状はバイオレメディエーションの切り札がないとのこと。そのくだりを読んで私は、たしか放射性物質には半減期があるから、放射能汚染を終わらせるのは微生物ではなく「時間」なんじゃないかな、と思いました。

とまれ、私は『風の谷のナウシカ』の面白さは、この腐海にあるのではないかと思っています。ナウシカの愛とか、王蟲とか巨神兵とか、トルメキアと土鬼の戦争とか、いろいろな要素が複雑に絡み合っていて面白いのですが、すべては腐海を巡る謎の上に展開していると思います。これがアニメ的にも独創性と迫力のある世界観を構築していて、『風の谷のナウシカ』を他の追随を許さない作品にしているのではないでしょうか。

凶暴な宮崎駿

漫画の『風の谷のナウシカ』は、作者の宮崎駿について、映画とは違う感想を抱かせます。

映画『風の谷のナウシカ』は、腐海の描写、蟲たちやアクションシーンの描き方が美しく、抒情的だとすら感じます。唯一、巨神兵の死に様がグロテスクですが、それだって『もののけ姫』のたたり神のようなおどろおどろしさはないと思います。

ところが漫画『風の谷のナウシカ』は、土鬼の皇弟や皇兄、蟲やヒドラもおどろおどろしく描かれていて、グロテスクな印象を強く受けます。アクションシーンも、首や腕が飛んだり、大量の流血があったりと、リアルで残酷で、映画とはだいぶ違うと感じました。

今回漫画『風の谷のナウシカ』を読んで、宮崎駿は本質的には、厳しく、かつ凶暴な作家なのだなと再認識しました。宮崎アニメの他の作品、例えば『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、あるいは『未来少年コナン』や『ルパン三世カリオストロの城』などは、宮崎駿の優しい部分が強く出ている作品であり、藝術家としての本音はやっぱり『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』の方に色濃く出ているのではないでしょうか。

板橋区立郷土資料館「令和5年度 工都展 印刷産業「残す」と「伝える」」

印刷産業にスポットを当てた企画

板橋区立郷土資料館に行き、企画展「令和5年度 工都展 印刷産業「残す」と「伝える」」を見ました。

本展示は、板橋区が2014年(平成26年)から開始した史跡公園整備事業と調査研究の成果を公開する展覧会「工都展」シリーズの、2023年(令和5年)版です。「光学産業」をテーマとした前年の展示に続く今年は、「印刷産業」にスポットを当てた内容になっています。いやぁ…面白かった。

凸版印刷板橋工場にあった「文化サロン」

印象深かったのは、凸版印刷の板橋工場に、戦後、GHQの民生官フランク・シャーマンのオフィスが設けられ、シャーマンがアメリカの雑誌を日本の進駐軍向けに再編集して印刷していたことを伝える展示です。シャーマンのオフィスは「シャーマン・ルーム」と呼ばれていたとのこと。

凸版印刷の創業の地は台東区下谷ですが、競合がひしめく昭和期、当時の社長・井上源之丞(いのうえ・げんのじょう)が世界の最新設備を揃えた大工場を板橋区に設立したのでした。シャーマンの仕事にとって、最新設備のある板橋工場は好都合の場所だったのでしょう。

興味深かったのは、シャーマンが当時の日本人藝術家たちを支援するべく、彼らをシャーマン・ルームに招き、親交を深めたというエピソードです。招かれた藝術家は画家の岡田謙三、荻須高徳、吉岡堅二、写真家の土門拳などで、シャーマン・ルームは占領期の文化サロンのような存在でした。シャーマンのこうした活動は、当時の凸版印刷社長・山田三郎太や社員たちの支援があって実現したらしいです。

また本企画展のリーフレットには、画家の藤田嗣治もシャーマンと親交があったことが書かれています。藤田は、板橋区小竹町(現在は練馬区)に住んでいた戦後間もない頃にシャーマン・ルームを訪れたとのこと。リーフレットには、その様子の写真も掲載されています。さらに、藤田は戦後フランスに移住し、日本には戻りませんでしたが、藤田作品に憧れていたシャーマンはその出国手続きを支援したのだそうです。

フランク・シャーマンとシャーマン・ルームに、さまざまなドラマがあったことが推察されます。面白い。

板橋区が「工都」になるまで

企画展では板橋区が「工都」になった経緯も説明されており、とても勉強になりました。

もともと農地だったこの地域が工都へと変貌していくきっかけの一つは、どうやら1907年に発足した「志村耕地整理組合」だったようです。水路や区画を整備する目的だったこの組合は、後に志村区画整理組合となり、工場の誘致と工員の居住地整備を目指すインフラ整備に変化しました。

関東大震災後、志村地域は「帝都復興計画」で「工業地域甲種特別地区」に位置づけられ、化学工場や重工業も移転してくるようになります。このようにして、大工場ができる素地ができあがり、凸版印刷板橋工場も建設されました。

これまで私の地元史の知識は、元は鷹場だった徳丸ヶ原が田んぼになり、その後に高島平団地になったとか、帝都復興計画の一環で常盤台住宅地が整備された、といった程度の、ごく断片的かつ限定的ものでした。しかし今回の企画展で、板橋区全体の工都としての展開の歴史について知ることができたように思います。

企画展は9月10日まで。

わたなべぽんの漫画二冊

メタ認知の働き

わたなべぽん先生のコミックエッセイを二冊続けて読みました。『ダメな自分を認めたら部屋がキレイになりました』(メディアファクトリー、2015年)と『自分を好きになりたい。』(幻冬舎、2018年)です。二冊とも、わたなべ先生が実体験を元に描いたエッセイで、読みやすく、面白かったです。ただし、柔らかく表現されているだけで、その背後には割と重くて暗いものがあったのだろうな、と私は感じました。

『ダメな自分を認めたら部屋がキレイになりました』は、片付けができず、夫と二人でいわゆる「汚部屋」に住んでいる主人公(わたなべ先生本人)が、自分のそういうダメさを受け入れたことにより、少しずつ部屋がキレイに片付いていったという、タイトルの通りの内容です。

本書で主人公の部屋を埋め尽くしていたのは、「持っているだけで安心するもの」でした。先生以外の、すべての汚部屋が同じかどうかは分かりませんが、かつて古書で埋め尽くされ、足の踏み場もないほどだった部屋に住んでいた私も、同じようなものだったと思います。

学歴コンプレックスがあり、知や教養への憧れもあった私は、高価な古書を所有しているだけで自分が教養人になった気がしたものでした。虎の威を借る狐だったのです。しかしこのブログの「蔵書始末記」に書いたように、知への憧れは依然として強いですが、図書館派に切り替えたこともあり、蔵書を大量に処分して環境を変えています。

さて本書で面白かったのは、各章の末尾にある「汚部屋あるある」です。部屋に蜘蛛の巣があるとか、裸足の裏が黒くなるとか、かつての自分も似たようなことがあったので笑ってしまいました。

『自分を好きになりたい。』は、自己肯定感を高めたいと思う主人公が、そのために設定した低いハードルを超え続け、自分を好きになっていく話です。本書には柔らかく表現されていましたが、どうやら主人公(先生)は母親からけっこうキツい虐待を受けていたようです。そういう過去を持つ人の多くは自己肯定感を保ちにくいのだろうと、読んでいて思いました。

『ダメな自分を認めたら部屋がキレイになりました』と共通するのは、主人公が思考回路を含めて自分を客観視し、感じ方と考え方を変え、生活と行動をも変えていったことです。そこにはいわゆる「メタ認知」が働いていたのではないかと私は思います。

メタ認知が働かず、高齢になっても若い頃と同じ過ちを繰り返している人は少なくないと感じます。メタ認知は人生の明暗を大きく分けると思うので、本当は誰もがメタ認知を働かせるべきなのでしょう。けれどもそのためには現実の自分をありのまま受け入れなくてはならず、時に痛みを伴います。わたなべ先生も、上記二冊の漫画ではあくまでコミカルに描かれていましたが、自分を認めるまでには相当な辛さがあったのではないかと思います。

佐伯一麦『遠き山に日は落ちて』

第1回木山捷平文学賞受賞作

佐伯一麦の長篇小説『遠き山に日は落ちて』(集英社文庫、2004年)を読みました。

二瓶浩明の佐伯年譜を参照すると、これは「すばる」1995年1月号から1996年4月号まで全14回連載されたものです。妻子と別れ、草木染作家の奈穂と新たな生活を始めた小説家の斎木の視点による、蔵王山麓での暮らしを綴った13篇の短篇から成り立っています。二瓶の年譜と短篇の数が合わないため、これは調べなくてはならないでしょう。

1996年に集英社より単行本として出て、同年、岡山県笠岡市出身の小説家・木山捷平を記念して創設された純文学の文学賞木山捷平文学賞(第1回)を受賞しました。

タイトルからして、地方の田舎を舞台にした小説を想起させますが、これはドヴォルザーク「新世界から」の第二楽章からとられた「家路」の、日本語の歌詞の冒頭のフレーズです。学校の下校を知らせる放送の曲として広く使われたようです。私も、学校だったかどうかは忘れましたが、この曲とフレーズはかすかに聴いた覚えがあります。

ちなみに、これは小説には書かれていませんが、「家路」の作詞は堀内敬三で、この人は慶應義塾の応援歌「若き血」を作詞作曲した人でもあるらしい。

佐伯文学を深く味わえる

さて本作。文庫解説は池上冬樹が書いています。その冒頭では佐伯の後年の長篇『鉄塔家族』を称賛しており、『遠き山に日は落ちて』との関連も説明しています。

私の分析では、佐伯の私小説は舞台が東京、神奈川を離れるにつれ、事件らしい事件が起きないものに変わっていきました。随想か手記を思わせ、しかし文章には滋味がある不思議な作品群です。本作にもそういう特徴がみられますが、私は佐伯の小説ではやはり東京、神奈川を舞台にした、前妻との関係を主軸にしたものが好きですね。

池上の解説では、本書の185ページに出てくる詩人が原阿佐緒で、107ページと206ページに出てくる詩人が丸山薫であることが紹介されていますが、これは小説本文に記述されている記念館や詩集の書名などから調べればわかります。

本書の173ページに出てくるビョルグ・アブラハムセンというノルウェーのテキスタイルデザイナーは、のちの佐伯夫婦の渡欧と小説『マイ シーズンズ』創作の契機となった人です。本作にはアブラハムセンの『布のステンドグラス』(学研、1985年)を奈穂が山形市の図書館から借りてきたエピソードがありますが、同書は今も山形市立図書館に所蔵されています。

解説にも書いてあることですが、佐伯の私小説群では主人公以外にも同一の人物が複数の作品に登場しており、読者には読みながら作品同士の人的なつながりを考える面白さがあります。奈穂がアブラハムセンの作品に感銘を受けたエピソードは、『遠き山に日は落ちて』ではそれほど大きな意味を持ちませんが、『マイ シーズンズ』へとつながるエピソードとして読むことができます。佐伯文学を深く味わう人にとっては面白い箇所だといえるでしょう。

乱読は考えもの…

最近読んだ本から

近頃は少しばかり心身ともに落ち着ける期間があり、シニアライフのようなゆったりとした生活を送っています。

一方で、本への興味はちっとも落ち着きを見せず、あれこれと手当たり次第に手に取り、ページをめくることが続いています。「最近読んだ本」は、4月21日にもこのブログで記事にしましたが、今回も備忘の目的で記録し、感想も述べてみようと思います。

精神疾患やさまざまな障害、内向型人間に関する本は以前から読み続けており、その熱はいっかな冷める気配がありません。

●山田和雄、日比野敬明、稲垣亜紀、間瀬光人:監修、稲葉健太郎、長野友里:編集、名古屋市総合リハビリテーションセンター著『よくある50シーン別 高次脳機能障害のある人に“伝わる説明”便利帖』中央法規出版、2023年)
●スーザン・ケイン『内向型人間が無理せず幸せになる唯一の方法』古草秀子訳、講談社+α新書、2020年)
●井手正和『発達障害の人には世界がどう見えるのか』SBクリエイティブ、2022年)

精神疾患とかではありませんが、こんな本も。

●樺沢紫苑『毎日を楽しめる人の考え方』(きずな出版、2022年)
吉田尚記『あなたの不安を解消する方法がここに書いてあります。』河出書房新社、2020年)

仕事やお金に関する本も興味は尽きません。

●高橋聡『起業するより会社は買いなさい』講談社+α新書、2019年)
●松田充弘『会社を辞めない起業 失敗リスクを限りなくゼロにできる8つのスモールステップ』日本実業出版社、2022年)
●三戸政和『サラリーマンは300万円で小さな会社を買いなさい』講談社+α新書、2018年)
●蓑田真吾『読めば得する 働く人のもらえるお金と手続き 実例150』朝日新聞出版、2023年)
●和田亜希子『ミニサイトをつくって儲ける法』日本実業出版社、2016年)

最近、「仕事」の本質に対する認識が深まったように思います。会社勤めだろうとフリーだろうと、仕事の本質が、他人や社会にとって「価値あるもの」を生み出し、それを提供して対価をもらうことであるのは変わりなく、その意識は立場に関係なく必要だと思うようになっています。

そんな基本的なことに四十歳を過ぎて思い至るとは情けないですが、この意識を持っていれば、逆に、会社に縛られることなく生きられるようになるのではないかと。

そんなことを、以下の本も読みながらあれこれ考えています。

●関口雄司『あなたも出版社から本が出せる』(実務教育出版、1995年)
●豊沢豊雄『著作権の取り方・生かし方』実業之日本社、1993年)
●藤本健太郎、藤本真理、玉川淳『働く人のための社会保障入門』ミネルヴァ書房、2023年)
●『「自宅オフィス」のととのえ方』主婦の友社、2020年)

本命はやはり小説や教養

小説や小説の書き方本も、相変わらず。

鈴木輝一郎先生の本は、現在、創作をしているところなので頭に叩き込むように読んでいますが、他の書き方本からも学びを得たいと思っている今日この頃。

●『新・何がなんでも作家になりたい!』河出書房新社、2013年)
●『何がなんでも新人賞獲らせます!』河出書房新社、2014年)
●『何がなんでもミステリー作家になりたい!』河出書房新社、2019年)
●『何がなんでも長編小説が書きたい!』河出書房新社、2021年)

小説は、耽読する時間がなかなか取れていない状況です…。

宮本輝灯台からの響き』集英社、2020年)
楡周平『プラチナタウン』祥伝社、2008年)
佐伯一麦『遠き山に日は落ちて』集英社文庫、2004年)

その他、歴史など教養に関する本もちらほら。

●吉田富美子『自分でできる ファミリーヒストリーを調べよう!』(二見書房 、2022年)
●ジェームズ・チェシャー、オリバー・ウベルティ『地図は語る データがあぶり出す真実』(梅田智世、山北 めぐみ訳、日経ナショナル ジオグラフィック、2023年)
中山元『労働の思想史』平凡社、2023年)

こうして並べてみると、やはり私は後半に列挙した、小説や教養に関する本が本命であることが自覚されます。前半は、いわば健康や仕事(お金)に関係しており、便利に実用する以上の目的はなく、時代や環境によって対処法もどんどん変わっていくものでしょう。それはそれで重要ですが、自身の人生や生活を考えると、やはり小説や教養こそが芯のように中心にあり、蓄積することで豊かになっていくものでもあるように思います。

それにしても、ちょっと乱読のし過ぎのような気がしています。もうちょっと絞りたいものですが、それもまた難しい。困ったもんです。

「文学フリマ東京36」に行ってきた。

文フリ史上最多の出店数

本日、東京流通センター第一展示場・第二展示場で開催された「文学フリマ東京36」に行ってきました。

2021年の「第三十二回文学フリマ東京」(5月16日)に出店者として参加して以来、二年ぶりの流通センターでした。

一昨年はたしか第一展示場だけの開催だったのではないかと記憶しています。また、2019年の第二十七回(11月25日)に行った時は第二展示場のみだったと思います。ところが今回は第一展示場と第二展示場の二会場で開催。出店数は1440(1605ブース)で文学フリマ史上最多となったらしく、書きたい人・発信したい人、が増えているということではないかと思います。

さて今日の私の最大の目的は、いうまでもなく、「はてなブログ」のブースでした。特別お題「今だから話せること」に参加し、3月19日に掲載した記事「脚本を書く映画監督になりたかった。」が、文学フリマで出品される「はてなブログ文学フリマ本」に掲載されることになったので、ぜひ印刷された本をいただきたいと思ったのです。

これからも書き続ける

午後、東京モノレール流通センター駅を降りると、会場外はすでに長蛇の列。しばらく並んで待った後、第一会場に入ると、通路はまっすぐ進めないほど人で溢れていて、出店者たちと来場者たちが発する「文学への熱」を感じました。

いや、さすがにそれは言い過ぎか…と思いますが、表現したくてたまらない出店者の一種の承認欲求と、それを受け止める来場者の多様な気持ちが絡み合う、実に不思議な空間になっていたと感じました。

はてなブログ」のブースに行き、スタッフと話しました。文フリ本の記事の執筆者であることを伝えると喜んでくださり、私の記事を掲載するよう推した、と話してくださりました。文フリ本と「はてなブログ」のシール、「週刊はてなブログ」の「文学フリマ参加記念号外」を手渡ししてくれて、私と同様の、映画に関する過去の体験を書いた記事があることを教えてくれました。

自分の書いた文章を読んでくれて、覚えてくれている人がいる。「書く」をライフワークにしている私にとって、これほどうれしいことはありません。スタッフにこれからも書き続けることを誓い、「はてなブログ」ブースをあとにしました。

その熱気に接して…

その近くに、佐伯一麦の『Nさんの机で』(2022年)や、小川洋子との対談本『川端康成の話をしようじゃないか』(2023年)を出している田畑書店のブースがあったので、行きました。「アンソロジスト」という同社発行の雑誌が売っていて、バックナンバーの一つ(vol.3)に井上荒野の寄稿とアニー・ディラード『本を書く』の書評が載っていたので、買いました。

私が行った時に小説家の女性(名前は聞こえなかった)が編集者らしき男と一緒に来て、その後も出店者は来場者と話し込んでいたこともあり、佐伯一麦の本が続けて出ていることについて話したかったですが、機を逃しました。

その他、Twitterでフォローしている人が書いた作品が載っている本を買ったり、会場をしばらくぶらぶらしたりしました。

楽しかったです。この数年は公私ともに色々とあり、やや体調を崩し、ブログの毎日更新をやめ、書き物は滞っていました。けれども今日、久しぶりに文フリの熱気に接して、書きたい気持ちが高まってきたように感じます。書くことはライフワークであり、書きたい作品はいくつもあります。諦めず、しつこく、書いていきたいと思います。

「はてなブログの文学フリマ本」に掲載が決まりました。

先日投稿した特別お題「今だから話せること」の記事が、はてなブログの企画「はてなブログ文学フリマ本」に掲載されることになりました。

本企画は、特別お題について書かれたブロガーの記事を一冊にまとめ、5月21日開催の「文学フリマ東京36」で配布するというもの。

応募多数の場合には抽選となり、選ばれた場合には連絡が来るとのことでしたが、しばらく連絡が来なかったので半ば諦めていました。ところが今日先ほど、掲載される旨の連絡が来て、喜びをかみしめているところです。

はてなブログでは、記事を書き溜めるだけでリトルプレス(同人誌)を作れる「はてなブログのリトルプレスパック」というサービスを提供しています。これは欧文印刷株式会社の「MyBooks.jp」による製本プランで、今回の企画は、はてなブログに投稿された複数の記事を一冊にまとめたもの。リトルプレスパックによる製本をユーザーに実際に見てもらうための企画のようです。

私は、2021年の文フリに小説集2冊とシナリオ集1冊を出品しました。今回は個人でブースを押さえたわけではありませんが、2回目の出品になります。どんな反応があるのか…。

この記事をお読みになった方、お時間があれば5月21日は「文学フリマ東京36」で「はてなブログ文学フリマ本」を手に取ってみてください。