杉本純のブログ

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板橋区立郷土資料館「令和5年度 工都展 印刷産業「残す」と「伝える」」

印刷産業にスポットを当てた企画

板橋区立郷土資料館に行き、企画展「令和5年度 工都展 印刷産業「残す」と「伝える」」を見ました。

本展示は、板橋区が2014年(平成26年)から開始した史跡公園整備事業と調査研究の成果を公開する展覧会「工都展」シリーズの、2023年(令和5年)版です。「光学産業」をテーマとした前年の展示に続く今年は、「印刷産業」にスポットを当てた内容になっています。いやぁ…面白かった。

凸版印刷板橋工場にあった「文化サロン」

印象深かったのは、凸版印刷の板橋工場に、戦後、GHQの民生官フランク・シャーマンのオフィスが設けられ、シャーマンがアメリカの雑誌を日本の進駐軍向けに再編集して印刷していたことを伝える展示です。シャーマンのオフィスは「シャーマン・ルーム」と呼ばれていたとのこと。

凸版印刷の創業の地は台東区下谷ですが、競合がひしめく昭和期、当時の社長・井上源之丞(いのうえ・げんのじょう)が世界の最新設備を揃えた大工場を板橋区に設立したのでした。シャーマンの仕事にとって、最新設備のある板橋工場は好都合の場所だったのでしょう。

興味深かったのは、シャーマンが当時の日本人藝術家たちを支援するべく、彼らをシャーマン・ルームに招き、親交を深めたというエピソードです。招かれた藝術家は画家の岡田謙三、荻須高徳、吉岡堅二、写真家の土門拳などで、シャーマン・ルームは占領期の文化サロンのような存在でした。シャーマンのこうした活動は、当時の凸版印刷社長・山田三郎太や社員たちの支援があって実現したらしいです。

また本企画展のリーフレットには、画家の藤田嗣治もシャーマンと親交があったことが書かれています。藤田は、板橋区小竹町(現在は練馬区)に住んでいた戦後間もない頃にシャーマン・ルームを訪れたとのこと。リーフレットには、その様子の写真も掲載されています。さらに、藤田は戦後フランスに移住し、日本には戻りませんでしたが、藤田作品に憧れていたシャーマンはその出国手続きを支援したのだそうです。

フランク・シャーマンとシャーマン・ルームに、さまざまなドラマがあったことが推察されます。面白い。

板橋区が「工都」になるまで

企画展では板橋区が「工都」になった経緯も説明されており、とても勉強になりました。

もともと農地だったこの地域が工都へと変貌していくきっかけの一つは、どうやら1907年に発足した「志村耕地整理組合」だったようです。水路や区画を整備する目的だったこの組合は、後に志村区画整理組合となり、工場の誘致と工員の居住地整備を目指すインフラ整備に変化しました。

関東大震災後、志村地域は「帝都復興計画」で「工業地域甲種特別地区」に位置づけられ、化学工場や重工業も移転してくるようになります。このようにして、大工場ができる素地ができあがり、凸版印刷板橋工場も建設されました。

これまで私の地元史の知識は、元は鷹場だった徳丸ヶ原が田んぼになり、その後に高島平団地になったとか、帝都復興計画の一環で常盤台住宅地が整備された、といった程度の、ごく断片的かつ限定的ものでした。しかし今回の企画展で、板橋区全体の工都としての展開の歴史について知ることができたように思います。

企画展は9月10日まで。