私小説家=正直な人?
日本文藝家協会編『新茶とアカシア』(光村図書出版、2001年)を、拾い読みしました。
本書はおかしなタイトルですが、2001年に発表されたエッセイの中から優れたものを日本文藝家協会が選りすぐったもの。著者は、阿川弘之、金重明、岩橋邦枝、高橋昌男、嵐山光三郎、古山高麗雄、坂上弘、庄野潤三、吉川潮、別役実、司修、高田宏、山崎正和、山本道子、小林恭二、松本健一、清水邦夫、佐伯一麦、大岡信、有吉玉青、又吉栄喜、原田康子、養老孟司、野田秀樹、三浦哲郎、水木しげる、川西政明、大庭みな子、石毛直道、中野孝次、リービ英雄、増田みず子、原研哉、阿部牧郎、古井由吉、なだいなだ、川村湊、林京子、白石一郎、佐々木幹郎、落合恵子、小川国夫、池内紀、藤森照信、平出隆、新井満、津島佑子、安岡章太郎、石牟礼道子、南条範夫、野見山暁治、横尾忠則、桃井かおり、日高敏隆、馬場あき子、富岡多恵子、外岡秀俊、松山巌、島田歌穂、黒井千次、竹西寛子、小沢昭一、内館牧子、新藤兼人、清水哲男、木下順二、秋山駿、E・G・サイデンステッカー、北杜夫、川上弘美、三木卓。
なお書名の『新茶とアカシア』は、三木卓のエッセイのタイトルから取ったもののようです。
私が読んだものの一つが秋山駿の「私小説の力」というものですが、これがわりあい面白かったです。
「私小説の力」は日経新聞11月19日に掲載されたもので、秋山が、重信房子の高校時代の文章を読む機会があった、というエピソードから始まっています。
重信の、日本赤軍リーダーとしての行為よりも、高校時代の文章に表れている素直さに、秋山は感銘を受けています。そして、こういう素直な心の持ち主が赤軍リーダーになるまでには、人としての「志」が動力になって進んでいったのだろうと推測しています。
しかし秋山は犯罪に走ることは善しとしておらず、志を立てて進む動力には、進もうとする力を抑制する力、忍耐も必要だと述べています。そして、「我田引水になるが、文学とは、志を樹(た)てて、そして忍耐の道を往くものだ」と書いています。
すこし前に、青森県近代文学館で三浦哲郎の文学をめぐる催しがあり、私も三浦文学の魅力を話しに行った。
三浦哲郎は、私小説家である。では、私小説家とは何か?
小林秀雄がある対談で正宗白鳥について語ったとき――私小説家の意味については、もう一度考え直した方がいいな、私小説家は「正直な人である」というのがいい定義ではないか、といっているが、私も同感である。
その上で、私小説家には「凄さ」があると述べ、「正直な人として生きるために必要とした、おびただしい『忍耐』の凄さである」と書いています。
エッセイは、林京子の野間文芸賞受賞作『長い時間をかけた人間の経験』や、自分が勤務している女子大の学生とのエピソードなどに触れ、21世紀には前例のない文章が出現することを期待しているところで終わります。
この後半はともかく、重信房子のことから「私小説家とは何か?」という問いに持っていく流れは見事だと思いました。
また、私小説家は正直な人、という小林秀雄の見解に同意しているところ、正直な人であるためにすごい忍耐を必要とする、というところは、私自身も、たしかにそうだ、と思いました。
私小説家=正直な人。かなり大雑把な括り方で、私小説家以外にも正直者はいるだろうとも思いますが、的を射ているといえるのではないでしょうか。まぁ…どうとでも解釈できそうというか、分かっているのかいないのかよく分からない、いかにも小林秀雄が言いそうな言葉ではありますがね。