杉本純のブログ

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バルザック『あら皮』

バルザックの長篇小説『あら皮』(小倉孝誠訳、藤原書店、2000年)を読みました。

私はバルザック作品を不定期で一作ずつ読んでいます。バルザックの代表作である本作のことは、何年も前に霧生和夫『バルザック』(中公新書、1978年)で知って以来、ずっと読みたいと思っていましたが、今回やっと読むことができました。

本記事では、『あら皮』を紹介しつつ、本作を現代的な感覚で読んだ感想などをつらつらと書きます。

バルザックの自伝的作品にして初の成功作

長篇『あら皮』は、1831年に刊行されました。バルザックはそれ以前にも小説を発表していましたが、実名で出版したのは1929年刊行の『ふくろう党』が最初であり、名のオノレと姓のバルザックの間に「ド」をはさんでオノレ・ド・バルザックとして発表した最初の作品がこの『あら皮』なのだそうです。

霧生和夫『バルザック』によると、本作は初版刊行の3週間後には再版の契約が結ばれたとのことで、バルザックの最初の成功作となったようです。

本作の主人公はラファエル・ド・ヴァランタンという下級貴族ですが、ラファエルは作者バルザックの分身といわれており、下宿の屋根裏部屋で貧乏生活を送りながら『意志論』という哲学論文を書いたことなどからも、バルザックの実人生と重なる部分があります。つまり、『あら皮』はバルザックの自伝的作品…ないし自伝的要素を持った長篇小説といえるでしょう。

『あら皮』あらすじ

『あら皮』は全三部構成の長篇小説ですが、第一部と第二部が時間にして一日足らずであるのに対し、第三部は半年もの期間のことを描いています。ざっと以下のような内容です。

護符(第一部)

青年貴族ラファエルは、人生に絶望して自殺しようとしますが、立ち寄った骨董屋の老主人から、商品の一つである「あら皮」を受け取ります。このあら皮は、オナガーというロバの一種のなめし皮で、裏にはサンスクリット語(実際の文字はアラビア語らしい)で、あら皮は所有者の望みを何でも叶えるが、叶えるごとに皮は縮まっていき、それと共に所有者の命も縮まる、といった主旨の文章が刻み込まれています。

なお「あら皮」は漢字で書くと「麤皮」で、東京や神戸にそういう名前のステーキ店があるようですね。

あら皮を手に入れたラファエルは、骨董屋を出た直後、友人に出くわしターユフェールという銀行家の宴会に誘われます。盛大な宴会に出たいという自分の願いの一つがさっそく実現し、驚きます。そして宴会でエミールという友人に会い、自分の過去を語り始めます。

なお銀行家ターユフェールは元医学生で、かつて殺人を犯したことのある人物です。殺人の経緯は短篇「赤い宿屋」に書かれているのですが、『あら皮』では触れられません。知っている読者のみが「人間喜劇」の奥深い世界を味わえます。

つれない女(第二部)

ラファエルは早くに母を亡くし、厳しい父に育てられました。その父の死後、下宿屋の屋根裏部屋を安く借り、貧乏生活をしながら『意志論』という論文めいた書物を著します。下宿屋の主人にはポーリーヌという娘がいて、ポーリーヌはラファエルを慕い、精神的な支えにもなってくれます。

その後、ラファエルはラスティニャックという男と出会い、社交界の花形であるフェドラという伯爵夫人を紹介されます。このフェドラがかなりの曲者で、常に態度がはっきりとせず、ピュアなラファエルの心を翻弄してしまいます。ラファエルはフェドラに振り回されたあげく憔悴し、浪費や放蕩をしたのち、絶望して自殺を思い立ったのです。これが小説の冒頭にあたる箇所です。

宴会が終わった翌朝、ラファエルは伯父の莫大な財産を相続することになります。しかし、あら皮は縮まってしまい、ラファエルの命も残りわずかであることを示していました。

死の苦悶(第三部)

ラファエルは裕福になったものの、何か願えばあら皮と共に寿命が縮むの恐れ、世間と隔絶してジョナタースという老従僕と静かに暮らしていました。

その後、劇場で再会したポーリーヌと暮らすようになり、幸福な時間を過ごしますが、あら皮は縮み続けます。ラファエルはあら皮の縮小を食い止めようと、高名な科学者に依頼します。しかしどの分野の学者にもあら皮の解明や縮小の阻止はできません。衰弱したラファエルは医師の勧めに従い、温泉地に行って療養に努めることになります。

オーヴェルニュ地方の温泉地の情景はまことに美しく描写されており、この世の楽園を思わせます。ラファエルはこの地で夢を見ているような気分で過ごすが、健康状態は回復しません。

その後パリに戻り、ポーリーヌと再会すると、ラファエルは激しくポーリーヌを求めますが、これが最後の欲望となり、ついに息絶えます。

だいぶ端折りましたが、おおむねこのようなストーリーです。

ラファエルは今でいう「こじらせ」か

『あら皮』は、魔術的な力を秘めた「あら皮」を手に入れ、その力でさまざまな欲望を成就させるものの、それと引き換えに残りの命を奪われるという、「悪魔に魂を売り渡す」式の、昔話風のエンタメ小説になると思います。しかし実際は、富、地位、愛などを得て、つまり「人生に勝利することに渇望した才能ある青年が、ついに不遇なまま人生を終えることになるという、一種の悲劇ではないかと私は思います。

この小説は、現代的な感覚で読むこともできる気がします。

まず、自分の才能を信じ、貧乏に耐え、『意志論』という哲学的論文を書くラファエルは、今でいう「こじらせ」ではないでしょうか。

幼時から愛に飢え、何者かになりたいと強く願い、極端ともいえる禁欲と勉学を自らに課し、悶え苦しみながら、地位、富、愛やアイデンティティの確立をも成就させるはずの大勝負に賭けるのです。その背後には数えきれないほど蓄積した憤懣があるはずで、ラファエルのこういう姿は、こじらせワナビに通じるものがあるように思います。

この、こじれにこじれまくった欲望や観念は、きれいに解きほぐせないこともなかっただろうと私は思います。しかし、まぁ…あら皮に手を出した時点でラファエルの運命は決まっていたわけで、最後は非業の死を遂げる方が小説としても面白いのは確かですね。

もう一つ。社交界の人気者でラファエルを曖昧な態度で翻弄するフェドラは、いわば「ツンデレ」で、デレの面は描かれていませんが、恐らくそんな女なんだろうと思います。

これは単なる想像ですが、フェドラは自分に何でも尽くしてくれる男を求めて社交界をさまよう寂しい女で、資産のポートフォリオでもつくるかのように、何人もの男を自分の信者として保有することばかり考えている気がします。恐らくフェドラには自分の考えなどなく、社交界でマウンティングできるポジションを獲得することを習慣のようにして生きているのではないでしょうか。

ラファエルは、そういうフェドラに振り回された、ピュアで、愚かで残念な青年の一人だったわけです。まぁ、小説的にお誂え向きといえばそうなのでしょう。

解説がありがたい

読んでいる最中、私は本作にやや不満を感じていました。この小説の文章はあまりに思弁的かつ抽象的で、ストーリーの進行は辛うじてわかるものの「起伏」の方はかなり捉えにくくなっているからです。

そういう部分がこの作品の「古さ」なのかと思ったものですが、不思議なことに、読後感は重厚かつ充実していました。

本書の巻末で宗教人類学者の植島啓司とフランス文学者の山田登世子が対談しており、植島が「最初のニ、三頁を読んでやめようかと思いました。(中略)でも、結局のところ、すごくおもしろかったですよ」とか、「こういう迷路に入り組んだような文体というのは、三十年ぶりぐらいに読んだ気がします。ただ読みはじめの抵抗感とは裏腹に、読みはじめたら、非常におもしろく読めました」と言っているのですが、まさにそんな感じでしたね。

ただしそれは、訳者の小倉孝誠による解説のおかげかもしれません。解説を読み、ストーリーの構造や作者の意図、読む上でのポイントなども整理されたことで、読後感がずっしりとしたものになったように思います。

やはり、私のような素人が古典的作品に素手で立ち向かうのは賢明とはいえません。解説という道案内があればこそ、作品世界を深く味わえるのでしょう。