杉本純のブログ

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指のない親方

佐伯一麦「転居記」は佐伯の私小説だが、それがその実人生に酷似していることは佐伯の随筆や『石の肺』(岩波現代文庫、2020年)を読んでも分かる。『石の肺』は佐伯自身のアスベスト禍の体験を書いた本で、岩波文庫は2020年刊だが2007年に新潮社から刊行されたものだ。

『石の肺』には、佐伯一家が新井薬師駅近くのアパートに住んだ後に大塚のマンションに住み、猥褻なイタズラ電話魔に狙われ、川崎市多摩区多摩川に近いアパートに引っ越した、という経緯が記されている。

「転居記」末尾は、主人公が新しく電気工の見習いになることが記されている。その親方は「右手の指が二本欠けていた」とあるのだが、私はその箇所を読み、佐伯が実際に見習いになった親方も右指が二本欠けていたろうか、と思って『石の肺』で確かめてみた。

『石の肺』には、親方は「左手の指が欠けている」とあり、右手については触れられていないようだ。

佐伯の電気工小説は他にもある。少し探してみたら、「端午」という短篇に「その右手の人差し指と中指の先は欠けている」とあるのを見つけた(『ショート・サーキット』(講談社文芸文庫、2005年)所収)。

恐らく、実際の親方は左手の指が欠けていて、小説の世界では右手の指が二本欠けている設定にしたのだろう。