杉本純のブログ

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自己陶酔はどんな助言も無駄

ある人が、人間は集団の中にいると狂気に陥るらしいと言っていた。狂気というとおっかない感じがするが、その人は連合赤軍事件について語っていたのである。その人は同時に、孤独になることで陥る狂気もあると語っていた。

狂気とまではいかないものの、人間ってやはり集団の中にいると、いくらか思い込みに沈むというか、暗示にかかりやすくなるのではないかと思う。

私が知っているある会社では、特に一部の若手社員の、仕事へののめり込み方が、何らかの思い込みによるものではないかと感じさせるものがある。若手たちの発言を聞いていると、仕事に快楽を感じているというより、キツい仕事に没入している自分に陶酔しているように感じられる。少年漫画の登場人物か何かのように、激烈な仕事をやっていることを通して、かなり安っぽい…ヒロイズムめいた感慨に浸っているようなのだ。激烈な仕事とは、具体的には長時間労働や深夜残業、休日の返上といったものである。そういうのをやる自分に、何かの犠牲になっているという意味のカッコよさを感じているように見受けられる。

私は仕事の中身に面白みを感じることはあり、その仕事に取り組むことで快楽を得るが、何かを犠牲にして激烈な仕事をやることに陶酔など覚えない。やるとしても、憤慨しながら、あるいは諦めて、粛々とやるだけである。どうして若手社員たちはそういう自分に陶酔するのか。それは、そういう価値観を持つ人が複数いる集団の中にずーっといて、暗示にかかってしまうからではないか。そんな風に思う。

けれども、陶酔はやがて冷めるのである。ある時、自分の人生はやっぱりこれではいけない、と思い直し、集団を去ることになるのである。そういう例は、たくさん見てきた。その様は、冷めるというよりバーンアウトで、その後は一定期間のリハビリが必要になったりする。若手たちを見て、自分に陶酔なんかするな!と思うが、これは自分で気づくしかないもので、他人が何を言っても無駄である。それは私自身、経験を通して知っている。