杉本純のブログ

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自己批判と自己陶酔

以前ある文藝評論家と話した時に小説の文体の話題になり、文体の格調を最終的に保証するのは恐らくナルシシズムだろう、ということになった。当時の私は二十四、五歳で、松岡正剛澁澤龍彦などを読んで心酔し、苦学生の自分にもどっぷり陶酔して、残念すぎるくらいにイタい奴だった。

今は自己陶酔よりも自己批判の方が明らかに強い。だから昔の自分の言動を思い出すたびに忸怩たる思いを抱くのだが、最近は、しかし自己陶酔というのは一片くらいは必要なのじゃないかという考えを持つに至っている。

その考えは実体験に基づいている。というのは、小説などの創作をするにあたり、テーマの強さやストーリーの展開、人物の造形などを考える際に自己批判が強すぎると、いくら考えても駄目、もっと良くなるはず、などと考えて前へ進めない。どこかで、これでいい、と決断してやり始めなくてはならないのだろう。

自己批判そのものは重要だが、度を超えると、失敗を恐れて前へ進めない自意識過剰になってしまう。真摯に自己批判しつつ、時には自己陶酔して思い切ってやらなくてはならない。

それは小説を「つくる」ことに関してのみならず、「書く」ことについても言えるのではないか。昔交わした文藝評論家との文体についての会話は、恐らく間違っていない。