杉本純のブログ

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人を陶酔させる文章

最近、あるライターの書いた文章が「酔わせる」と評判だった。

題材が酒に関係のある事柄だったので、それに引っ掛けての「酔わせる」だったのかもしれない。しかし私もその文章を読んで、たしかに口当たりの良さを感じたし、読みやすく分かりやすい文章だったので、評判が良かったのには納得だった。

それはそうと、私はその時、三島由紀夫が『文章読本』(中公文庫、1995年)で、谷崎潤一郎の初期の文章について、「刺青」を引用し、「陶酔させる文章」だったと書いていたのを思い出した。

 谷崎氏の初期の文章はまことに人を陶酔させる文章でした。ここには上等なとろりとしたお酒の味わいがあります。それは目を楽しませ、人をあやしい麻薬でもって現実や理性から背けさせます。ところで文章というものは、どんなに理性的な論理的文章であっても、人をどこかで陶酔にさそうような作用をもっているものであります。われわれは哲学者の文章に酔うことすらできます。ただ酔いにもカストリの酔いや上等の酒の酔い、各種あるように、またスイートな酒からドライな酒までいろいろあるように、低級な読者は低級な酒に酔い、高級な読者は高級な酒に酔います。自分を酔わせてくれない文章が、人を酔わせることも十分あります。ただ文章にはアルコールのように万人を酔わせる共通の要素がないだけであります。

三島は『文章読本』の中で、泉鏡花についても「理性自体でたどり得る最高の陶酔を与えてくれると言っても過言ではありますまい」と言っている。

果たして、文章の酔わせる・酔わせないの違いはどこにあるのか、私には分からず、三島の言う通り、どんな文章にも酔わせる要素があるのかも知れない。いや、きっとそうだろう。

恐らく人を酔わせる文章とは、これも三島の言う通り、眼を楽しませてくれるもの、理性から背けさせるものだろう。また音読をも見越しての読みやすさ、というのもあるのではないか。つまり、頭でなく五感に訴えかける言葉づかいをした文章、といったところか。

私はかつて谷崎や鏡花みたいな文章を書きたい書きたいと焦がれ、中途半端に真似た小説を同人誌に書いた。しかし、周囲からの評価は低かった。また今読み返すと、とても読み続けられないほど恥ずかしい、自己陶酔的な文章になってしまっている。

そうした体験から思うのは、安直な下手な「酔わせる」文章は、書き手がある意味で「自分に酔っている」文章なのだろうと思う。初期の谷崎も自分に酔っていたように思えるが、五感に訴えかける要素はたしかにあった。ただ私は、今では谷崎の初期の小説や鏡花の小説には酔わなくなった。私が読み手として変わったのだろう。