先日、谷崎潤一郎の『文章読本』(中公文庫、1996年改版初版)を読み返す機会があった。初読は、奥付の私自身によるメモを見ると2003年になっているので、もう二十年近くも前になる。
谷崎については一時期集中的に小説や研究書・評論の類いを読んだが、それがだいたい十五から二十年前のことだ。そう考えると疎遠になって久しいのだが、『文章読本』をさらっと読み返しただけでも面白い、ためになるところが数か所あった。
例えば「一 文章とは何か」には、
現代の口語文では、専ら「分らせる」「理解させる」と云うことに重きを置く。
と述べられたずっと後に、
真に「分らせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要なのであります。
と述べられている。
これは要するに「異化」ということじゃないかと思った。これまで大江健三郎の本で読んだ「異化」は、知覚を長引かせるということで、分らせる、記憶させる、通じる気がする。あるいは車谷長吉は『錢金について』(朝日文庫、2005年)で、文中に非日常や非現実を盛り込む「虚点」が文学の必須条件と書いていた。これも、記憶させる、ということに通じるように思う。