杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

松岡正剛の思い出

かつて惹かれた

編集者の松岡正剛が死にました。80歳。

私は学生時代と社会人になってしばらくのあいだ、松岡に惹かれていたことがあります。ここ十数年はその熱も冷め、かなり遠ざかっていましたが、やはり若い頃に長く熱中していただけに、訃報に接したときは驚きました。

松岡の仕事は広範かつ多大であり、私にはその全容はわからず、評価することもできませんが、生前の松岡を数回、直接見たことがあるため、その辺りの思い出を書いておこうと思います。

美輪明宏との対談

まず、私が松岡のことを知ったのは、NHKの「テントでセッション」だったと思います。これは著名人同士の対談番組で、片方の著名人は一週間にわたりホストを務め、もう一人がゲストとして日替わりで登場して対話をする、という45分くらいの番組だったと記憶しています。

松岡が登場した週は、美輪明宏がホストを務め、横尾忠則渡辺えり子(現・渡辺えり)、島田雅彦などがゲストとして出てきて、最後に松岡が登場しました。松岡との対談は、ネットで調べたところ、2001年6月29日だったようです。

当時の私は、大学に入ったものの映画の夢を捨てきれず、夢と現実のギャップに苦しみ、自我が不安定になり神経衰弱めいた状態になっていました。当時の美輪明宏は、まだ演劇やコンサートをバリバリこなし、テレビにもよく出ていて、壮絶な人生経験に裏打ちされた揺るぎない自信がありました。私は、その自信に満ちた態度と発言に心打たれ、美輪を慕い、出演するテレビ番組を録画し、繰り返し見ていました。

松岡との対談は、主に日本の社会と文化に関するものだったと記憶しています。松岡が対談の会場に、小村雪岱による泉鏡花の小説の挿し絵を持ってきて、日本文化を解説していました。美輪は、三木露風作詞、本居長世作曲の「白月」を歌っていました。これが、幻想的でいい歌でした。

松岡は、美輪によって多読で博識な人と紹介され、「現代のレオナルド・ダ・ヴィンチ」ともいわれていました。何者でもない自分を責め、映画の道を往くため読書と映画鑑賞に明け暮れしていた私に、松岡がまぶしく映ったのはいうまでもありません。

松丸本舗」によく行った

その後、私は2000年2月23日に始まった松岡の日刊ウェブ書評「千夜千冊」を読みまくり、書評された本もずいぶん読みました。もちろん、松岡自身の本もけっこう読みました。

Wikipediaを参照すると、「千夜千冊」は2004年7月7日に千夜を迎え、その後『千夜千冊』が出版され、全部で9万円もするのに1000部ほど売れたらしく、出版界の「事件」といわれたと記憶しています。

同じくWikipediaによると、丸の内オアゾ丸善本店の一角に、松岡が選本した本を販売する「松丸本舗」がオープンしたのは2009年10月です。私は、会社の仕事で大手町方面に外出したついでや、出張からの帰りに松丸本舗によく立ち寄っていました。変わった形の本棚に並べられた本や、ガラスケースの向こうに置かれた杉浦康平デザインの『全宇宙誌』初版、森永純の『河』などを眺め、一人昂奮していたのを覚えています。

松丸本舗は新刊本だけでなく古書も売られていて、ここでたしか私は松岡の『遊行の博物学』『情報の歴史』などを買いました。ほかにも、分厚い『岩波哲学・思想事典』なんかも買いましたし、「千夜千冊」で紹介されていた本も何冊か買った記憶があります。ナム・ジュン・パイクの『バイ・バイ・キップリング』は、欲しかったですが1万円以上と高価で、諦めました。

松岡の本は、松丸本舗以外の古書店や、Amazonなどでもけっこう買いました。『全宇宙誌』『情報と文化』『古代金属国家論』『間と世界劇場』『イメージとマネージ』『インターネットストラテジー』などが印象に残っています。

松丸本舗では、松岡が出る勉強会のようなイベントがたしか不定期で開催され、私は一度、店で松岡を見たことがあります。1万円以上する『岩波哲学・思想事典』を買う決意を固め、店舗に行ったら、松岡がレジ近くのイベントスペースにいて、ゲストだったかスタッフだったか、あるいは客だったか、とにかく誰かと話していたのを覚えています。

その時、松岡の編集工学研究所のスタッフらしい松丸本舗の店員が、「どうぞ近くで聞いてください」などといい、私を客席のほうへ促しましたが、私は松岡と話す勇気などなく、「遠巻きに見ています」と断りました。店員は二人いて、遠慮する私から目を離した後、顔を見合わせて「ダメです」といって笑っていたのを覚えています。私は松岡と話す勇気がなかったことに加え、急いでいたのもあり、本を買った後、すぐに店を後にしました。

「連塾」の夜

その後も「千夜千冊」はチェックし、紹介されている本や松岡の新刊なども買って、時間を見つけては読んでいました。

松丸本舗ができた2009年あたりは、松岡のちょっとしたブームが起きていたのではないでしょうか。松岡の本はけっこうな数、出版されていたと思いますし、松岡自身もけっこうテレビやイベントに出ていたと思います。

その一つが「連塾」というもので、松岡が日本の文化などについて、著名人との対談を通して語るセミナーのようなイベントです。

私は一度だけ、連塾に参加したことがあります。ネットで調べると、2009年12月19日に新宿パークタワーホールで開催された会で、ゲストは花人の川瀬敏朗、英文学者の高山宏、舞踏家の勅使河原三郎でした。参加費は3万円くらいと高額でしたが、頑張って出して出席しました。

対談は……まぁ、今にして思えば、わかるようなわからないような、松岡らしい「趣」のある内容でした。内容はあまり覚えていませんが、私は会場を出た後、すごい話を聞いたぞ、といった満足感にひたりながら、新宿の夜を寒風に吹かれて帰りました。

当時の私を思い返すと、物書きになりたいと思いながらもまったく結果が出せず、会社の仕事に追われるばかりで、辛かった記憶ばかりが浮かんできます。何者かになりたい人=ワナビとして生きる悶々とした日々の中で、こんな風になりたい、と思うキラキラした存在の一人が松岡でした。

九段会館にて

松丸本舗と連塾のほかでも、松岡の姿を見たことがあります。九段会館で行われた全日本剣道連盟のイベントで、松岡が登壇して剣道や武道について講演をしたのです。ネットで調べたところ、2010年12月4日に行われたようです。

この講演は恐らく無料で、予約なども必要なかったと記憶しています。そうでなければ、行かなかったでしょう。講演の内容は忘れてしまいましたが、剣や禅のことを話していたと思います。松岡は九段高校出身で剣道もやっていたので、講演を依頼されたのでしょう。

未来に残るものは、おそらくない

こうして松岡の思い出を振り返ると、以前の私は、自分というものに自信が持てず、すごい人に憧れ、吸い寄せられるように近づいていき、ずいぶん時間とお金を使ったなぁ……と、悔恨のような思いが湧きあがってきます。

松岡の「千夜千冊」には多数の間違いがあり、ある作家がそれを指摘していることを、私は学生時代の先生から聞きました。たしかに松岡の文章には指摘するべき箇所が多く、書かれた内容が事実であるかどうかについては、私は今ではあまり信用していません。松岡が作った本でこれから先も残るものは、おそらく、ほとんどないでしょう。

松岡が工作舎や「遊」をスタートさせた頃のことや、当時の松岡がカリスマ的な存在であり、周囲の人間が大学に行くのを否定していたことなどは、香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』(バジリコ、2008年)で少し読みました。

松岡には自己陶酔家のようなところがあったと思います。それがまた、私のような自信のない人間の心に刺さるものがあったのだと、私は考えています。

松岡がらみで入手した本は、今ではもう手元にありません。残っているのは、「千夜千冊」の1296夜に紹介された、リチャード・ワーマン『理解の秘密』(松岡正剛監訳、NTT出版、1993年)だけです。