杉本純のブログ

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言語化される職人技

あるネット記事に、いわゆる「職人技」はその八割を言語化できる、ということが書いてあった。

こういう類いの言説は、近年よく耳にする。寿司の職人を目指すのに寿司屋に入って何年も修行するのはバカだ、というツイートは有名だし、現にそういう修行をしていない寿司屋が一年足らずでミシュランの星を取ったらしいので、実際その通りなのだろう。

私自身、体で覚えろとか言って言葉で伝えないのはおかしいと最近は思うようになっている。これは、自分が後輩を指導するようになってから如実に感じていることである。明確な言葉で伝えなくては後輩にはまず伝わらないし、私が発する言葉に矛盾があると後輩は納得もできず、それどころか混乱し、物を覚えるどころではない。

また、テニス部の球拾いのような、どう考えても意味のない仕事を何年もやることでようやく組織のメンバーとして認められるというような「メンバーシップ型」の組織や育成の仕方にも疑問を感じている。

職人技のみならず、スポーツやクリエイティブの高度なテクニックも、恐らくだいたいは言語化できるのではないかと思う。レンブラントだったかフェルメールだったか、昔の有名な画家のタッチを習得したコンピュータが、本人の作品だと間違われるほどの絵を描いた、という話を聞いたことがあるが、これなどはクリエイティブどころかアートの領域まで言語化できているということではないか。

ある作家は、自分は泉鏡花の文章を真似ようと思っても決してできない、と言っていたが、それすらも覆される日が来るかも知れず、またその日はそう遠くないかも知れない。