杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

和田芳恵「小説と事実」

『和田芳惠全集 第五巻』(河出書房新社、1979年)に収録されている「小説と事実」は、「長篇「暗い流れ」を書き終って」という副題がついている。「北海道新聞」1977年2月25日に発表された随筆で、『暗い流れ』執筆の思い出などが語られている。

「暗い流れ」のなかには、かなり、私の閲歴と周囲の人たちが描かれており、その中には実名で登場することもあるので、とかく、実際にあったと思われたりもした。
 登場する人たちは、その人たちを知っている側から、ほんとうだと思われたが、その場合は私の作りあげたものであった。ここが、フィクションというもののおもしろさであろう。

とある。

佐伯一麦講談社文芸文庫の『暗い流れ』の解説「私小説という概念」で「小説と事実」に触れ、上記引用箇所と同じ部分を引き、

作中でもっとも印象深いと思われる、主人公に性の手ほどきをするシモという女性についても、死んだ姉が晩年になってからした、父が子守に雇われていた娘に男の子をうませたという話が、和田の内部でふくれあがったものだと打ち明ける。しかし、たとえ事実をはなれていたとしても、読者は、シモが小説の中に息づいている生々しさを否定することはできないにちがいない。

と述べている。

私小説とはいえ小説なのだから、まったく事実そのままでなくてもいい。『暗い流れ』に関して、和田は「フィクション」という言葉を使っているが、現に佐伯は登場人物に「生々しさ」を感じているわけだ。

和田は、『暗い流れ』執筆に際してとった態度を次のように述べている。

「暗い流れ」は、とかく、美談になりそうな内容で、私は、どのようにして、この進行を止めようかと苦労した。そのためには主人公の吉平の恥部をさらけだすことであった。私は自分の卑小さに絶望しているものだから、日常生活では逆な生きかたをしている。これらをかなぐり捨てて、第三者が、どう思っても仕方がないことだと肚を決めた。

私小説を書く上での訓戒にしたいくらいだ。