杉本純のブログ

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私小説と善悪

瀬戸内寂聴山田詠美『小説家の内緒話』(中公文庫、2005年)がやたら面白い。これは2002年に刊行された『いま聞きたい いま話したい』(中央公論新社)を改題したもので、中身の二人の対談は2000年から2002年にかけて「中央公論」や「婦人公論」に掲載されたものが初出(計4回)。

とにかく二人が何ごとも歯に衣着せず、遠慮なしに女子トークを繰り広げていて楽しい。もっとも、女子トークといっても編集サイドで手を入れているのか、無駄話にはなっていない。

第一章は「私小説」というタイトルが付いていて、二人がそれぞれ自らの私小説の経験を述べつつ私小説一般とその周辺について話し合っている。中で瀬戸内が、

私小説というのは、一番自分をいい子に見せようとするいやらしさがあります。こんなに悪いことをしました、こんなにずるい人間ですって。あんなのみんなニセ懺悔よ。ホントの懺悔なんて活字にできますか。

と話しているのだが、瀬戸内自身が『夏の終り』などの私小説を書いた実体験からそう言っているので、興味深い。

ここでは「懺悔」という言葉が使われているが、それだと自分は加害者になるので、受け止め方によってはたしかに「いやらし」いかも知れない。

では、被害者として「私はかつてこんなに辛い体験をした」という描き方をしたらどうだろう。その場合、小説は加害者側を告発することになるはずだが、果たして「自分はいい子なのに残虐なあの子からひどい目に遭わされた」といった「私はいい子」の内容になるだろうか。なるかも知れない。

ではさらに、失恋とか、フェアに勝負して負けたとかいう話を書いた場合はどうか。その場合、相手は「加害者」ではなく、だから自分も「被害者」にはならないだろう。

そもそも、私小説を書く上では自分を美化するのは良くないし、他人を悪く書くのも良くないと思う。加害とか被害とか、善悪に縛られない視線で過去の事態を見つめることが重要ではないか。なお対談ではその点について、冒頭で山田が「私小説って自分のことを書くんだけれども、自分からいちばん離れたものを突き放して書くという冷静さが必要とされるんですね」と述べており、瀬戸内も同意している。

純文学はもともと、善悪を論じるものではないのだ。

ちなみに山田が書いた私小説とは「最後の資料」である。「文學界」1999年1月号に発表された短篇で、『マグネット』(幻冬舎、1999年)に収められている。