杉本純のブログ

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母性と娼婦性

 牧子は四十を迎えたこのごろになって、ようやく、自分の蹉跌の多かった運命の根は、人並みより豊かな母性の機能を恵まれた軀の中に、おびただしすぎる娼婦性の情緒を棲まわせている矛盾を軸として、不器用にぎくしゃく廻ってきたのだと悟ったようだ。

瀬戸内寂聴の短篇「雉子(きぎす)」(『夏の終り』(新潮文庫、1966年)の一節なのだが、私は男ながら、この一文が我が事のように思えて驚いた。

この作品は瀬戸内の私小説だから、瀬戸内自身がこういう人間だったに違いないと思う。母性が豊かで娼婦性がおびただしいというのは、際限なく開けっ広げで、放埒で、あるいはちゃらんぽらんで、清濁併せ呑むし豪胆でもあるということではないだろうか。乱暴で冷たくもあり、無限に優しくもあるのだろう。細かいことを気にせず朗らかだが、時に無遠慮であり傍若無人にもなってしまう、というような…。私は、自分もまったくそうだとは思わないのだが、どことなく近いものはあると感じていて、これまで人間関係で大きな損をしたのはそういう性格だからではないかと感じている。