杉本純のブログ

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心理的自叙伝3 地球のかす

会社勤めをして得したな、と思うのは、自分の「個性」がいかに人から必要とされていないか、もっと言うと、いかに自分が地球のかすに過ぎないかを実感する場面が多いことだ。

例えば取引先は、私が成果物を提出すると喜んでくれる。しかし、私がどれだけ仕事にやりがいを感じているか、どんな思いを込めて提出物を作り上げたかには関心がない。つまり私の個性やこだわりなどの「私情」には一切関心がないのだ。

私は、できるだけすみやかに、お客さんが望んだものを望んだ形で提出することが求められている。私が仕事を楽しもうが、苦しもうが、やりがいを感じようが虚しかろうが、そんなことはお客さんには一切関係ない。

それはまぁ、当然だろう。自分が客になったと思って考えればすぐに分かる。以前もこのブログで書いたが、自分が飲食店で料理を注文した時、料理人やホール係がやりがいを感じていようといまいと、接客が好きであろうとあるまいと、そんなことはどうでもいいはずである。商品を安全かつすみやかに運んでくれればそれでいいのであって、それ以上のことには関心がない。人間はそういう生き物だ。

こういう見方は、人によっては冷淡に映るかも知れないが、歴然たる事実である。そんな世の中は寂しいかも知れない。そう、全ての仕事は寂しい。

ちょっと言い過ぎかも知れないが、つまり地球のかすなんだ。ある時代、ある国に発生して、何十年か生きたら動きが止まって、燃やされて消えてしまう、そんな地球のかすに過ぎないのだ。

映画と文学に打ち込んでいた藝術青年だった頃、私は自分が世界で最もユニークで優れた人間だと思っていた。その個性や思想を皆が注目してくれると確信していたが、サラリーマン生活を続けてきたことで、自分が地球のかすに過ぎないのを知ることができた。べつに会社勤めをしていなくてもそれが分かる人は分かるだろうが、私は誇大妄想が大きかったためか、そのことを理解するのに時間がかかったように思う。

もちろん「地球のかす」ってのは言葉の綾で、私が飲食店のスタッフをそう見下しているわけではない。誇大妄想を抱えていた私が現実を受け入れるためにふさわしい言葉として使っただけである。