杉本純のブログ

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アウフヘーベン雑感

小池百合子がきっかけになって流行した「アウフヘーベン」は哲学の用語で、ヘーゲル弁証法において提唱した概念である。

岩波書店の『哲学・思想事典』(1998年)では

ヘーゲル弁証法においては,有限で一面的な悟性的規定の否定が重視されているが,その際の否定は,Aufheben(「止揚」あるいは「揚棄」)という語で言い換えられているように,①解消すること,②高めること,③保存することという三つの内容を有している.

と説明されている。難しくてよく分からないが、Weblio

あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。

という説明ならなんとなく分かる気がする。要するに、現時点では受け入れられないけれど、差し当たり保留にしておき、後でより有効に活かすこと、といったところか。

私は実はこの言葉と意味がけっこう気に入っていて、というのは、身近なところでけっこうそういう「アウフヘーベン」な事態に接しているからだ。

……まあ、ここから先は、突飛な、あまりに突飛なたとえ話で、まあ頭の体操というか、思考のお遊びのようなものである。

漫画『DEATH NOTE』の主人公である殺人鬼の夜神月は、探偵のLに追い詰められた挙句、殺人の道具であるデスノートの所有権を放棄することによってデスノートに関する記憶を忘却し、Lの追及を逃れる。しかし月には、デスノートは後で必ず自分の手元に戻ってきて殺人鬼としての記憶を取り戻すことになる、という確信を持っていた。しかも、さらにその先、自分を追い詰めてくるLを殺すことをも計画に入れていた。ストーリーはその通りになり、月はLを倒すことに成功する。

これは、自分の目的遂行をいったん停止させ、保存し、後にさらに発展させて実現する、という流れを辿っているように見えないこともない。

こういうことって、実際にあるだろう。今は勝てない、だからひとまず退却して機が熟すのを待って、後で必ずや勝利を摑んでやる!ということ。

私は『DEATH NOTE』のそういうストーリー展開を見て、面白いと思いつつ、何だか自分のことようにも思えたのだった。

というのは、私は幼少期に幾度か他人から称賛された経験から、自分は才能にあふれた藝術家だと信じて疑わなくなっていた。しかし、その誇大妄想は映画学校を卒業するに際して抛棄せざるを得なかった。妄想を抱えたまま社会へ出てもまったく駄目で、まずは妄想(というか理想、あるいは野心)に見合う実力を身につけなくてはならない、つまりめちゃくちゃ勉強しなくてはならない、と思ったからだ。けれども一方で、いつか必ず世間に自分を認めさせてやろう、俺を見下した奴らを超えて大きな人間になってやる、といった思いを消し去ってはいなかった。つまり理想を「ひとまず停止、保存し、後でさらに大きく実現しようとした」のだ。

鹿島茂『パリの王様たち』(文春文庫、1998年)には、ロマン主義時代の巨匠たちは自分は天才だと勝手に思い込み、その思い込みによって本当に天才になってしまい、巨大な作品を生み出すというパラドックスを生きた、と書いてある。さらに、その巨匠の一人であるユゴーの初期作品は、内容のない思想がすごい技法の中に盛られていて、普通の人の場合はその逆だと書いている。「彼の場合、早熟なのは技術面で、内容はあとからついてきたのだ」。

ユゴーもまた自分を天才だと思い込み、しかし技術はあったものの中味が伴っておらず、後年になって内容が追いついて傑作を生み出したわけだ。これは言うなれば、ユゴーは妄想と技術を持ちながらも偉大な創造の方はいったん停止し、保存して、後になってさらに大きな結実を見せた、という流れで捉えることができないだろうか。

ロマン主義時代の巨匠たちは、不思議なことに、なにか具体的な成果を残したのちに自分が天才であると思い込むのではなく、なにひとつ書いてもいないうちから妄想狂のような確信をもって自分は天才だと勝手に思い込み(後略)

と鹿島は述べている。

DEATH NOTE』の月も自分は神になる、などと妄想狂のような思い込みをしている人間である。

映画学校までの私もまた、そうだったか。。自分を過剰に高く評価するロマン主義人間は、現実の高い壁にぶち当たり、まずはその高さにひれ伏し、忍耐した後、さらに大きな達成を遂げようとする。人生は弁証法そのものである。

ただ私の場合、いつかの妄想(野心・理想)は、保存してさらに大きく実現しようとした過程で(まだ実現していない…)かなり変形し、今はかつてのような馬鹿な思い込みはなくなっている。以前より高次元の理想を実現すれば、アウフヘーベンを達成したことになるかも知れない。