杉本純のブログ

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佐伯一麦と庄野潤三

庄野潤三講談社文芸文庫『野菜讃歌』(2010年)は、庄野の死後刊行された。解説を担当したのは佐伯一麦で、このたび、それに関連する佐伯の過去の書き物をいくつか探索したのだが、これが面白かった。

佐伯の解説「反響の余韻」は、随想と庄野潤三論が混ざったような、ある意味でとても佐伯らしい、不思議な味わいのある文章である。

庄野が死に、新聞に追悼文を書いたことから文芸文庫の解説の依頼が来た、という記述から始まり、単行本の『野菜讃歌』(講談社、1998年)に関するいくつかの思い出が語られる。次いで、晩年の庄野は「定点観測の達人という趣があった」と言い、フランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンを引き合いに出しながら庄野の小説作法を論じる。さらに、庄野の伝記的事実などにも触れながら、庄野文学の変遷や深化を述べている。

「定点観測」という言葉を見て、佐伯の『鉄塔家族』や『渡良瀬』といった小説には庄野文学の影響が少なからずあるかも知れない、と私は思った。つまり、『鉄塔家族』も『渡良瀬』も、身近な風物や人物を、視点、というか語り口を変えることなく時間をかけて眺めているように思えるからだ(『渡良瀬』は『野菜讃歌』の刊行前に書き始められていたのだが)。

「反響の余韻」冒頭は、庄野の告別式が川崎市多摩区南生田の春秋苑で行われたことが紹介され、こう続く。

 数日後、新聞に私が寄せた追悼の文章に目を留めたNさんから、文芸文庫としては第一随筆集『自分の羽根』以来、三年ぶりとなる随筆集の文庫解説を依頼する手紙が届いた。

文芸文庫『野菜讃歌』の刊行は庄野夫人が承諾し、それが庄野が亡くなる三日前のことだったとNからの手紙に書いてあった、とある。

私は、佐伯が追悼文を寄せた新聞とは?と思い、過去の新聞を調べてみたら、予想通り日経新聞だった。庄野が亡くなったのが2009年9月21日午前10時で、日経は9月23日に訃報を載せている。佐伯の追悼文は9月25日に「『人生の観察者』貫く」というタイトルで載った。Nという人はこれを読んで佐伯に依頼したわけだが、講談社の編集者だろうか。

私には「『人生の観察者』貫く」が面白い。佐伯は「庄野さんには、とうとう一度もお目にかからないでしまった」と書いていて、庄野の晩年に葉書をいただいたきりだったと書いている。その後の方で、

高校を卒業して上京した後、電気工をしながら小説を書いていた頃に住んでいたアパートは、お宅と丘一つ隔てたところにあった。休日には、よく自転車を飛ばして近所の川崎市多摩図書館へと向かった。そこには、庄野さんが寄贈した『庄野潤三全集』があり、全十巻の各巻末に附された阪田寛夫氏による懇切な解説に導かれて、随筆にいたるまでの全作品を読んだものだった。当時の私にとって、「私は会社勤めをしながら、文学をやろうとしている友人に言うことは一つしかない。ただ気力を振い起す以外に道はなく、それが辛ければ止めるより仕様がない」(「文学を志す人々へ」)と庄野氏が、自身も学校と放送局に勤めながら小説を書いていた時期を振り返って述べた言葉は、暗夜の灯火となった。庄野さん、ありがとう。

とある。「電気工をしながら小説を書いていた頃に住んでいたアパートは、お宅と丘一つ隔てたところにあった。」とあるのは、多摩区稲田堤のアパートに違いない。

佐伯はそこに住みながら、デビュー作となる「木を接ぐ」を書いていたのだが、同時期に「かわさき文学賞」に「静かな熱」という短篇で応募していて、その作品募集のポスターを見たのが多摩区の図書館である(「八木さんに選んでいただいた処女作」(『八木義徳全集』8巻月報))。現在、多摩図書館向ヶ丘遊園駅から歩いて行ける多摩区総合庁舎の建物内にあるが、これは1997年に開庁したものなので、佐伯がポスターを見たのはそこではない。庄野寄贈の全集は、今の多摩図書館にはあるのだろうか。

私はかつて川崎市麻生区に住み、多摩区麻生区で主に配布されていたタウン誌に携わっていたが、事務所は春秋苑の近くにあって、近所に庄野潤三が住んでいることも聞いて知っていた。稲田堤にも、よく行った。

ちなみに佐伯が暗夜の灯火としたという庄野の「文学を志す人々へ」は、庄野全集十巻に収められている。