庄野潤三の随筆「文学を志す人々へ」が面白い。これは『庄野潤三全集 第十巻』(講談社、1974年)所収で、初出は「群像」1962年8月号。佐伯一麦は川崎市多摩区の稲田堤のアパートに住みながら「木を接ぐ」を書いていた頃、休日には自転車を飛ばして多摩区の図書館に行って本を読んでいたのだが、そうして読んだ中に庄野全集があった。庄野全集は庄野が多摩区の図書館に寄贈したものであったそうな。
「文学を志す人々へ」は「ある夏の読書日記」というサブタイトルが付いている。これは、庄野が学校の教師をしていた「戦後間もない年」の夏休みに勤しんだチェーホフ研究を記録したものらしい。
日記は7月13日の「流刑地にて」を読んだ感想に始まり、9月5日の「精進祭前夜」と「復活祭週間」で終わっている、と書いてある。その内容は、感想や評論じみた記述をしている箇所もあれば、手紙などチェーホフの伝記的事実を伝える資料を元に書いているところもあるようだ。そして、末尾には「一先ずおわり」という文字が書いてある。
私がこの夏休みに試みたことは、全く青臭いものであったとは云えない。むしろある意味では、書くことが食べることと直接に結びついてしまった現在には得られない純真さがあると云えるかも知れない。
今は米塩の資ということばかり考えるから、迂遠と思われることをやらなくなった。本当は迂遠なようで根本的な大事なことがあるのだが、そういうものに心を向けておくことが、ついないがしろにされている。
私はチェーホフ読書ノートの末尾に記された「一先ずおわり」という文字を見て、この心持を忘れるなと自分に云い聞かせたいのである。
「迂遠」なこと…。なるほど思えば私も、学生時代は名作の丸写しをしたり短篇の音読を毎朝やったりと、いわゆる「迂遠」なことにずいぶん時間を費やしていたような気がする。だから共感は大きいのだが、庄野のように、ああいう経験が根本的で大事だったと言えるかというと、はなはだ心許ない。たぶん、本当に無駄だったんだろうと思っている。
さて庄野は続いて、自分は文筆生活に入る前に十年間、学校や放送会社に勤めていたと書き、
いま私の知っている人の中にも、会社勤めをしながら小説を書こうとしている人がいるが、その人たちがいちばん苦痛に思うのは、一日のうちの物を書くのに最もいい時間を会社に取られるということである。
と言っている。さらにその後、
勤めながら創作をやろうというには、よほどの気魄が必要なのだろう。書かないでもともかく暮して行けるのだし、何かの職業についていれば毎日毎日は結構気がまぎれて過ぎて行くものなのだ。
しかし、私は会社勤めをしながら、文学をやろうとしている友人に云うことは一つしかない。ただ気力を振い起す以外に道はなく、それが辛ければ止めるより仕様がない。そういって励ますしかない。
とある。この言葉に胸を打たれるワナビは少なくないのではないだろうか。私も、その一人である。
佐伯一麦もまた、デビューする前は上の言葉を「暗夜の灯火」にして、働きながら小説を書いていた。