杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

一人でこつこつ調べ物してるとどよーんと暗くて寒い孤独感に苛まれることがときどきある。書き物をしている時もそうで、誰からも見向きもされない仕事をしこしこやってると、どうしようもなく辛くなってくるのだ。

「俺は孤独さ」という「ファッション孤独」なんぞ通用しない。「俺は孤独さ」と言うのを聞いてる人が一人もいないのである。調べ物とか書き物は一人で進めるしかなくて(あくまで私の場合だが)、その仕事は往々にして周りの誰も興味がないことだ。誰も興味を持っていないことを昼間から部屋でこつこつやるのはこの上なく寒々しくて、しばしば自分で自分が痛々しく見えてくる。

けれども調べ物や書き物というのはそもそもそういうものであって、その孤独感に耐えられないなら調べるのも書くのもやめちまったほうがいい。自分が調べたいから調べるのだし書きたいから書くのであるから、誰かからの支持とか応援がなければ嫌だなんて甘えが通じないのは当然のことだ。共同で調査や執筆に当たることもあるだろうけれど疑問を持つ主体は自分だから答えは自分で掴むしかない。

一つのことを突き詰めて調べる、書く、というのはつまり、一本の道を歩いていくということじゃないかな。その道程で他人に出喰わして仲良くなることがあれば敵対することもあるだろう。自分がその道を行こうとするならば、その道には自分一人分しか歩ける幅がなくて、他人とずっと一緒に歩くのはそもそも難しい。他人は他人で自分の道を歩いていて、こちらとしては寂しさのあまりそっちに行きたくなることもあるだろうけれど、他人の道もまた一人分の幅しかないからずっと一緒には行けないんだよ。

私は以前、同人誌に所属して文学作品を発表していたが、そこは言わば、文学の道を行く人が仲間となって協力し合って一緒に歩こうとする「幅の広い道」だった。家族だって会社だって町内会だって、つまり集団とか組織というものは押し並べてそういうものだ。そこに上手く馴染めれば居心地がいいだろうが、いっぽうでそういう場所ではいわゆる「幅を利かす」人がいるので、その人と相容れないならその道から出て行くしかないだろう。それまで自分が歩いていた「幅の広い道」の幅が広ければ広いほど、出た後で歩いて行かなくてはならない自分の道は小さく狭く思えるに違いない。それは辛い。でもそれが自分が選んだ道なんだから雄々しく歩いていくしかないんじゃないかな。

ちょっと話が横道に逸れたけど、「道」とかそういう高尚そうなことを持ち出すまでもなく、調べ物だって書き物だって結局やるのは自分一人なんだから、ケツをまくって居直って、一人でずんずん進んで行くしかないだろう。

で、それで、みんなもそれぞれたった一人なんだと、本質的には孤独なんだと理解できれば、孤独には違いないけどちょっとは安らげるんじゃないか。少しは楽になるんじゃないか。自分は一人だけどみんなもそれぞれ一人なんだから辛いのは自分だけじゃないんだと。ちょっと臭いけど、愛情とか表現って、そういうところから初めて生まれてくるんじゃないかな。そんな気がしてる。