杉本純のブログ

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八木義德年譜

古書店講談社文芸文庫の八木義德『私のソーニャ・風祭』(2000年)を見つけ、ほぼ迷わず購入した。表題作は「わたくしのソーニャ」「かざまつり」と読む。私はこれまで「わたしの…」「ふうさい」と読んでいた。。

本書には「劉廣福」「私のソーニャ」「雪の夜の記憶」「風祭」と、目次には書かれていないが「私の文学 抄」が収められている。解説は川西政明で、年譜と著者目録は土合弘光である。

八木といえば私としては佐伯一麦との関連が興味深いので、年譜に佐伯との接触のことなどが書かれていないか、舐めるように見た。1999年11月9日、八木は肺炎のため多摩丘陵病院で死に、告別式が15日に南多摩斎場で執り行われた旨の記述があり、「葬儀委員長吉村昭。司会佐伯一麦高橋英夫三浦哲郎らが弔辞」とある。佐伯の名が掲載されているのはここだけのようだ。

しかし、1957年、46歳の年にかわさき文学賞の会主催「かわさき文学賞コンクール」が創設され、第一回から選考委員を務める、とあるが、佐伯が初めて入選した文学賞である。

1969年、58歳の年に待ちだし山崎町の山崎団地に転居、とある。佐伯はかわさき文学賞受賞後、八木と交流を持ち、この団地に八木を数度訪ねている。

これは佐伯とは関係ないが、1949年8月、「野口冨士男に誘われ、舟橋聖一、船山馨、三島由紀夫らとともに『キアラの会』を結成する」とある。変わった名前の会だなぁと思ったが、調べてみると、これは「伽羅の会」という意味の作家連合で、「風景」という雑誌を出していたのだそうである。