杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

バルザック作品の会話

大江健三郎の『新しい文学のために』(岩波新書、1988年)をぱらぱら読んでいたら、面白い箇所があった。

 僕はまだ若い頃、フランス文学科の同級生とパリで再会して、かれらのそれぞれが、たとえばバルザックを研究している友人は、——ここへ来る地下鉄(メトロ)のなかで、バルザックが書いているのと同じ会話を聞いたよ、と幸福そうな顔をしていたことを思いだす。コレットの研究家からは、——ホテルの使用人が、『ジジ』のせりふそのままの一節を中庭から叫んでいるのよね、というふうに。

その後では、漱石志賀直哉野上弥生子の会話を街角で耳にしたと感じることはないのではないかと書き、それは自分たちが文学作品のなかの日本語に耳を澄ませて読む習慣をなくしているからだ、と書いている。

果たして、私たちは日常生活において文学作品の台詞、とりわけ古典的な作品に出てくる台詞に接することがあるだろうか。

バルザックが書いた会話として私が特に印象に残っているものと言えば、『ウジェニー・グランデ』でウジェニーが召使のナノンに言う「ナノン、それぢや麵麭菓子(ガレット)をこさへてよ」か(水野亮訳)。

大江の若い頃の友人がどんなバルザックの会話を聞いたのか分からないが、「ガレットを作ってよ」、といった言葉なら娘が母親に言いそうな気もする。

しかし普通はマーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険』の「ぢゃあ、よろしい、僕は地獄へ行かう」のような決め台詞の方がよく記憶に残っているもので、これなどは今なら「それなら、いいだろう、俺は地獄に行くよ(最悪の展開になっても構わない)」といった言葉になるだろうか。

まったくないことはなさそうな気もするが、誰かの言葉を聞いて文学作品の台詞と同じだなどと思うことは恐らくもうなくて、そういうのは漫画とか宮崎駿のアニメの台詞とかに取って代わられていると思う。