杉本純のブログ

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文学の鬼

八木義德『文学の鬼を志望す』(福武書店、1991年)は、八木の随筆集。「文学の鬼を志望す」という言葉は本書所収の随筆(初出は「新潮」1957年8月)のタイトルであり、2008年から2009年にかけて東京都と北海道で開催された八木の企画展のタイトルにもなっている。

八木義德という作家は、「かわさき文学賞」で佐伯一麦の「木を接ぐ」よりも前の作「静かな熱」を選んだ、佐伯の恩人の一人だ。

さてこの「文学の鬼を志望す」だが、八木の文学観というか、文学に対する姿勢や心意気を綴ったもので、要するに自分は文学の鬼になりたい、というもの。その冒頭には、西洋は悪魔だが東洋は鬼だ、として、悪魔といえばファウストを誘惑するメフィストフェレスのイメージがあると書き、「映画でみた名優エミール・ヤニングス扮するところのあのメフィストフェレスだ」と述べている。

1911年生まれの八木がどんなファウストを観たんだろう、と私は思ったが、恐らくムルナウ監督の1926年の無声映画ファウスト』だろうと思った。調べてみると、やはり同作でヤニングスがメフィストを演じている。ちなみにヤニングスという人は、『肉体の道』と『最後の命令』という映画で第1回アカデミー賞男優賞を受賞している。

さて八木はこの随筆で、小説は世迷い言に過ぎず、文学は欲深であさましい凡夫の世界だなどと言い、けれども鬼を目指すということは藝を極めることであり、それは実から虚へ、虚から象徴へと到る途である、といったことを述べている。

面白いのは、二葉亭四迷の「文学は男子一生の事業にあらず」という言葉を引き、たしかに文学は女々しいものに違いないが、その内にある藝の掟は男性的だと述べているところだ。私は四迷の言うのはもっともだと思いつつ、八木の言い分も正しいとは思う。しかし全体に、どうも「鬼を志望する」とかいうのがしっくりこなかった。藝術の創作意欲が旺盛であればあるほど「鬼」なのであって、鬼を志している、と思っているということは創作意欲が足りない証拠だと思うからだ。