杉本純のブログ

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台詞による人物描き分け

大江健三郎『人生の親戚』(新潮文庫、1994年)の途中で不思議だったのは、小説家である主人公の「僕」の言葉遣いと、ムーサンという登場人物の父親の手紙の文体が、等しく大江健三郎の文体そのものであることだ。この作品は一人称体で書き進められるので、「僕」の言葉遣い(文章)はそのまま小説の地の文になっている。だからそれが大江らしいのは当たり前だが、知人であるムーサンの父親が手紙で大江っぽい文章を書いているのは、大江の文体が独特なだけに余計に不思議である。ただし、ムーサンの父親もいちおうインテリの設定なので、その点がその違和感をいくばくか軽減していたように感じた(また、手紙の文章は一応「僕」が編集して小説に盛り込んだことになっている)。

小説におけるキャラクターの描き分けの方法は様々だが、その一つが言葉遣い(台詞)だろう。ただし、バルザックの小説を読むと、性格とか行動の描写を通じてキャラが一人一人実に巧みに描き分けられているように感じるが、台詞にはそんなに違いを感じない。一方で以前、佐伯一麦『鉄塔家族』の感想が書かれたブログを読んで、そこには登場人物のキャラが全員同じだ、と書かれていて、たしかに『鉄塔家族』は誰もが同じような口調で話すよなぁ(台詞の文体が一緒)と思った。

台詞によるキャラ描き分けの巧みな例として思い浮かぶのは、漫画だが尾田栄一郎先生の『ONE PIECE』か。まぁ少年漫画はキャラの描き分けが生命の一つであるため、それは当たり前と言える。小説では…もちろん谷崎潤一郎、また水上勉も『フライパンの歌』とか『雁の寺』『越前竹人形』が巧みだったが、台詞だけに頼っていたわけではなかった。もちろん漫画だって他の様々の要素を使ってキャラを描き分けているわけで、台詞はその材料の一つに過ぎないだろう。