杉本純のブログ

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佐伯一麦と三島由紀夫

「群像」に連載されている「私の文芸文庫」の3月号の第3回「三島由紀夫私小説」は、佐伯一麦が執筆している。取り上げているのは中村光夫三島由紀夫の『対談・人間と文学』(2003年)で、三島由紀夫私小説に対する認識について述べている。

最初、三島由紀夫尾崎一雄を引き合いに出し、私小説の底流には怠け者の態度があり、ビジネスライクに時間を使うことがない、と述べたことに、佐伯は同意している。それが私小説の本来の定義だとも言っているのだが、ちょっとよく分からない。私小説ではない小説を書く作家の中にもビジネスライクではない怠け者はいるんじゃないか。

どうして佐伯がそんな風に書いたのかを想像してみて、恐らく佐伯は、職業作家と藝術家の違いを三島の言葉に見出したのではないかと思った。つまり藝術家は怠け者で、職業作家はビジネスライクだ、というわけで、その場合、藝術家=私小説作家だということになるわけだが、職業作家にもやはり怠け者はいるんじゃないかと思う。要するに、藝術はビジネスじゃなく、人間の本性に従って、怠け者のように生きるところから創られる、といったニュアンスのことが言いたかったのか。

続いて、小説のモデルのことに言及し、人名や地名も、たとえ現実にあるものが小説に出てきても現実そのままではない、と述べ、小説は「人名と地名との、あるものに対する抽象性と具体性との境目のところのニュアンスをつかんでいって、まことらしさをつくる芸術」という三島の言葉を引いている。

何だか「異化」にも通じるような気がするが…佐伯は『対談・人間と文学』を、「文学の根本問題を考えるうえで、つねに私が手がかりとしている一書」とまで言っている。

佐伯の、小説への態度の一端が窺える書評だと思う。