杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

北京の電気工

佐伯一麦『Nさんの机で』(田畑書店、2022年)を興味津々で読む毎日です。このことは前にも書きましたが、本書に書いてある佐伯の伝記的事実の多くは、佐伯の他のエッセイにも書いてあります。しかし、他のエッセイよりも本書の方が詳しく書いてあるのが面白く、逆に、他のエッセイの方が詳しく書いていることもあり、愉快です。

佐伯は1991年に『ア・ルース・ボーイ』で三島由紀夫賞を受賞。しかしその前に「ショート・サーキット」で野間新人賞をとっていて、当時は野間新人賞は芥川賞の後に取ることが多いものだったらしく、その野間新人を取った佐伯はもう芥川賞は無理、と人に言われたそうで、だから三島賞を目指したのだそうです。

さて受賞後、佐伯は日中文化交流協会の訪中作家代表団の一員として黒井千次らと共に中国に渡りますが、そのくだりにこんな記述があります。

 北京で日本文学研究者たちと持たれた懇談の席では、ふと窓の外に目を遣ると、梯子に上って配線工事をしている電気工の姿が映った。それを見たとたん、私はにわかにソファに座った尻の辺りがもぞもぞするような心地にとらわれはじめた。おまえが本来いる場所は、窓の外なのであり、ここにいかにも作家面して座っているおまえはいったい何なんだ、と自問した。ココハ、ドコ? ワタシハ、ダレ?

「ココハ、ドコ? ワタシハ、ダレ?」は、ちょっと可笑しな感じがしますが、電気工の姿を見て、それが本来の自分と思って作家である現実の自分が自分でないような気がする、というのは、佐伯の屈折した心理を表しているようであり、また電気工の仕事が佐伯に刻印した労働者のアイデンティティの深さを思わせるものでもあります。

Nさんの机で