杉本純のブログ

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佐伯一麦と太宰治

佐伯一麦『からっぽを充たす』(日本経済新聞出版社、2009年)の「四十の坂」には、佐伯がそれまでの生涯で太宰を集中的に読んだ時期が三度あったと書いてある。一度目は中高生の頃で、二度目は三十代の初め頃である。三十代の頃の時、佐伯は「自分のこれまでの人生が過誤に満ちていた、という危機を自覚して、大人になって文学を捨てるか、大人になりきれない自分を文学によつ(ママ)て見据えるか、という選択を迫られた」らしい。

これまでの人生が過誤に満ちていた、というのは具体的に何だったのか。最初の妻とのことか、それとももっと別の何かだろうか。知る由もないが、私が好きな佐伯の小説はだいたい三十代前半までに書かれたものだから、佐伯の小説が私小説であることを考え合わせると、過誤を描いた文学作品こそ面白い、ということが言えるかも知れない。

さて太宰を読んだ三度目は、広瀬川にまつわる「ルポルタージュとも小説とも付かないもの」を執筆していた頃で、先行作品として『津軽』を読んだという。

佐伯はそんなに頻繁に太宰に言及しないが、『男性作家が選ぶ太宰治』(講談社文芸文庫、2015年)では選者の一人として「畜犬談」を選んでおり、紹介文で、自身が犬に嚙まれたことがきっかけで吃るようになったと書いている。