杉本純のブログ

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長篇執筆の心理管理

今日はちょっとおかしなタイトルだが、長篇小説を書くために心理状態をどう管理するか、ということで、大江健三郎の『私という小説家の作り方』(新潮文庫、2001年)の次の一節を通して考えてみたい。

 小説を書くための心理状態の管理をいうならば、長篇であればなおさらのこと、書きすすめてゆくその日の労働がカヴァーしうる部分より遠くを見てはならない。むしろ前方のことは放っておいて、その日の労働にのみ自分を集中させうるかどうかが、職業上の秘訣である。私が経験によってそれを知ったのは『万延元年のフットボール』を書く際のことだった。

万延元年のフットボール』のことは置いておいて、「その日の労働がカヴァーしうる部分より遠くを見てはならない」の辺りが考えさせられる。

現在、長篇小説に取り組んでいるが、これから本格的に執筆を開始するに当たり、一つ上の言葉を肝に銘じておこうかなと思っている。

その考え方は、例えば大きな建造物を建設していて、設計者であると同時に施工者である人が、今日はここからあそこまで進めようと考え、それを実行して、それ以外のことを考えてはならない、ということか。そういう一日の積み重ねをひたむきにやることで、大きな建造物をも完成させられる、ということだと思う。

では仮に、「その日の労働がカヴァーしうる部分より遠く」を見てしまったら、どうなるのだろう。大江の文章を読むと、「その日の労働がカヴァーしうる部分より遠く」を見ずに取り組み続けることで、「小説が別の次元に到る、それをもたらす力」がやってきた、と『万延元年』執筆時のエピソードを通して述べている。だから、「その日の労働がカヴァーしうる部分より遠く」を見てしまうと、小説が別の次元に到る力は得られない、ということになるだろうか。

これはつまり、先のことをさほど考えずひたむきに書き続けることで、小説が思いがけない結末へと飛躍できる、ということを述べていると思う。私は、地図上に置いた目的地のポイントを目指して旅程を計画通りに進んでいくように小説を書き進めていくのが良いと考えていたが、目的地である旅の最終地点が思いがけず別の場所に変わる、ということかも知れない。私はこれまでいくつも短篇を書いてきたが、そういう経験は多分してこなかったと思う。

大江は上述の引用箇所の後で、小説を書き終わった際の感情には他者のうかがい知り得ない喜ばしいものがある、という三島由紀夫の言葉を紹介している。