文藝誌「海燕」1984年11月号を手に取る機会があり、冒頭の八木義德によるエッセイ「小説のおもしろさ」を読みました。
「海燕」は福武書店、現在のベネッセコーポレーションから出ていましたが(1982年1月号より)、1996年11月号をもって終刊しました。同社が主催していた新人文学賞からは佐伯一麦や吉本ばなななどの作家が出ており、島田雅彦も、新人賞ではありませんが佐伯より前に「海燕」からデビューしました。
さて八木のエッセイ「小説のおもしろさ」ですが、その内容は平たくいえば、小説の面白さは「新しくて、しかもおもしろい人間像」であり、そういうおもしろい人間像を創り出してほしいと若い作家たちに願い、それが、衰退しつつある小説の魅力を回復する唯一の方法だということです。3ページほどの短いエッセイですが、ややまわりくどい、締まりのない語り口が八木らしいなと私は感じました。ちなみに1911年生まれの八木はこのエッセイが出た時には73歳くらいだったはずです。
このエッセイの中に、面白い、というか、なるほどなぁと感じる箇所がありました。
私は「カラマーゾフの兄弟」を十代に一度、二十代に一度、三十代に一度、四十代に一度、五十代に一度、というぐあいに、十年くらいの期間をおいて五度読んできているが、年を取るにしたがって「カラマーゾフの兄弟」のおもしろさは、一層濃密に、一層深くなったように思う。
『カラマーゾフ』のような大長篇を何年かに一度読む、という話は、これまでに何度か耳にしたことがあります。私は、大長篇ではありませんが『若きウェルテルの悩み』を過去に数度読んでおり、最近また読みたいなと思っています。あるいは『レ・ミゼラブル』や『ロビンソン・クルーソー』など、またいつか読みたいなと思う大長篇もあります。
そういう、何年かに一度読みたくなる長篇があるのは、その人の読書人生の豊かさである気がします。