杉本純のブログ

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佐伯一麦とミレー

佐伯一麦の「海燕」新人文学賞受賞作「木を接ぐ」(1984年)には、ウェルギリウスの詩のエピグラフがある。

ダフニスよ、梨の木を接げ。汝の孫たち、その実を食うべし。
  ――ヴィルギリウス

これがタイトルの由来になっていることは容易に想像できたが、私はこの詩を知らないし、小説を最後まで読んでもどんな関連性があるのかわからなかった。

ところが最近、佐伯の随筆集『月を見あげて 第二集』(河北新報出版センター、2014年)の「木を接ぐ男」を読み、それがわかった。

 実は、私のデビュー作である「木を接ぐ」という小説は、ミレーの「木を接ぐ男」という画から題名を得ている。岩波文庫ロマン・ロラン著『ミレー』の中に挟み込まれていた「木を接ぐ男」の白黒の挿し画を切り取って文机の前に貼り、書き継いだものだった。

とある。この書き方からすると、初めてその事実を語ったように見えるが、たしかに上記事実を伝える別の資料は、私は今のところ知らない。

続けて佐伯は、ミレーのよき理解者であるルソーという画家(テオドール・ルソー。アンリ・ルソーではない)は、ミレーの「木を接ぐ男」にミレー自身の心労が表象されているのを見て取り、「ミレーは自分を頼る者たちのために働いている。ちょうど、花や実を付けすぎる木のように、身体を弱らせている。野生の頑丈な幹に開花した若枝を接ぎ、ヴェルギリウスのように考えている」と述べた、と書いている。そのヴェルギリウスの考えとは、例のエピグラフの文言である。

さらに佐伯は、そのペシミズムはゴッホに受け継がれている、とも書いている。佐伯の名前「一麦」は、麦畑の画を描いたゴッホに因んだものである。

佐伯の「木を接ぐ」は、主人公に一人目の子供が生まれる経緯を描いた私小説である。主人公は職を転じながら身重の妻とボロアパートに暮らしている。佐伯は、家族を養うために身を粉にして働く、決して恵まれた境遇でない主人公と、ミレーの画の男を重ね合わせたのだろう。ただし、主人公は昔の女への未練めいたものを残していたりと、少なからず屈折している。

ロランの『ミレー』(蛯原徳夫訳、岩波文庫、1939年)はミレー伝である。中にはたしかに「木をつぐ男」(「木を接ぐ男」ではないようだ)が挟み込まれている。私は、これを切り取って貼り付けた当時の佐伯の姿を思い浮かべた。

佐伯が『月を見あげて』で説明した箇所を『ミレー』で実際に読むと、当時のミレーの境遇が伝わってくる。1814年生まれのミレーは1851年に祖母を亡くし、次いで母とも最期を看取ることなく死別し苦悶していた。離れて暮らしていた母の元へどうして行けなかったのかというと、金がなかったためらしい。だから画が多少なりとも売れて入ってくる金はとりわけ貴重であったと、ロランは書いている。仲間だったルソーはそうした事情を察していたのだろう。「木をつぐ男」を見てミレーの心象を察し、ウェルギリウスの詩を引用したのだ。

ウェルギリウスには『農耕詩』があり、もしかしたらそれにダフニスの梨の木の詩があるのかも知れないが、調べていない。

ウィキペディアのミレーのページを見ると、「木をつぐ男」は「接ぎ木をする農夫」となっており、制作年は1855年とある。