杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

佐伯麦男

佐伯一麦はデビュー前に「佐伯麦男」というペンネームを使って小説新人賞に応募していた。佐伯としては、梶井基次郎檸檬」の主人公が、爆弾に見立てた檸檬丸善に置いたように、自分自身も文学の世界に爆弾(麦男=ばくだん)を仕掛けるつもりで作品を投稿していたのだ。

私は佐伯の随筆を通して、佐伯がかつて使っていた名前「麦男」の存在を知り、時間を見つけては調べていたのだが、今回やっと見つけることができた。佐伯がデビューする前に公募型新人賞を行っていた文藝誌をかたっぱしから調べれば、もっと早く分かったかも知れないと思う。

手掛かりになったのは佐伯の『石の肺――僕のアスベスト履歴書』(岩波現代文庫、2020年)である。これは、佐伯が味わったアスベスト禍の実態を綴ったノンフィクションで、当然ながら佐伯の伝記的事実がふんだんに盛り込まれている。その中に、佐伯が1984年に「海燕」新人文学賞を受賞したエピソードがある。

 受賞作は、高校時代から書き継いでいた作品はひとまず措いて、新たに書いた自分の最初の結婚生活と子供の誕生を材にとった「木を接ぐ」という題名の私小説ふうの作品でした。
 その一年前の桜の時季には、昼休みを利用して現場の近くの書店を探して飛び込んで見た文芸誌(折しも尊敬する文学者だった小林秀雄の追悼特集が編まれた特別号だったことをよくおぼえています)の片隅に、自分の名前が載っていたものの、第二次を通過したことを示すゴシックにはなっておらず、落胆させられました。

その後、気を取り直して同じ作品を最初から書き直し、それが「海燕」で新人賞を取ることになる。

小林秀雄の追悼特集が組まれた文芸誌を探し、「新潮」と「文學界」の当該号を読んでみた。すると、「文學界」の1983年5月号が追悼特集と「第56回文學界新人賞中間発表」を掲載していた。

そこには「木を接ぐ(神奈川)佐伯麦男」とある。しかし太字にはなっておらず、二次選考は通過できなかったことが分かった。『石の肺』の記述の通りである。

驚いたのは、佐伯はこの作品を最初から書き直して「海燕」を取るのだが、タイトルが「木を接ぐ」のままだったということだ。タイトルの由来はこのブログで過去に書いたので省くが、思い入れの強いタイトルだったのだろう。

とまれ、ようやく「麦男」を探し当てた。とはいえ、佐伯はそれ以前にも新人賞応募をしているはずなので、今回見つけた「麦男」は一例に過ぎないかも知れない。今後も少しずつ調べていくつもりである。