杉本純のブログ

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バルザック『暗黒事件』

水野亮訳のバルザック『暗黒事件』(岩波文庫、1954年)を読んだ。

ナポレオンの暗殺を企てていた貴族たちが、それを察知した秘密警察らの謀略により悲劇的な結末を迎える…という大筋は分かるのだが、登場人物があまりに多く、またそれぞれが名前でなく代名詞や異名を付けて書かれている箇所が数多あり、正直に言って「事件」の細かな紆余曲折が捉えづらかった。が、まぁ一つの事件が歴史の闇に葬り去られたということで、こういうタイトルが付けられたのだろう。

水野による解説の一節。

バルザックは)重苦しい空氣の底に獨裁政治の本質を見事に搜り當ててゐる。一國の空をとざす霧のやうな漠としたもの、すなはち政治の暗さがそれである。ナポレオンの獨裁を裏面から支えてゐたフーシェの秘密警察が、最高政治の面に壓迫を加へてゐたばかりでなく、草深い片田舎の城館に住む人々の運命を無殘に狂はせたその詳細な叙述は、「結び」における政治家たちの叛服常なき陰謀の場面と相俟つて、バルザックの政治に対する對する深い洞察を示すものであり、我々をして三思せしめる力を持ってゐる。

なおこの解説にはバルザックスタンダールの『パルムの僧院』を読み、五十年間の間に現れた本のうちで最も立派だと絶賛したエピソードなどが紹介されており、面白い。

「はじめに噺(コント)ありき」

「ありき」は、最近「〜を前提とする」といった意味で使用されているが、本来は「〜があった」というという意味だ。「〜を前提とする」を正しいとして受け入れる向きもあるようだが、私は誤用だと思っている。

さて、「はじめに噺(コント)ありき」はロラン・ブルヌフ、レアル・ウエレ共著『小説の世界』(駿河台出版社、1993年)にある見出しで、そこには「秘義獲得(イニシアシオン)は、人間である以上もともと存在するもので、コントはその鍵となる状況を提示する」と述べられている。

私はこの考え方が好きで、というか、小説を創る上でかなりしっくりくる。小説そのものが、ある一つの小さな話からストーリーが展開していくという意味で「はじめに噺(コント)」がある、と言える。

それだけでなく、作家が小説を考え・創る上でも、何らかの意思に基づいた行動、環境との相克と帰結、すなわち噺(コント)との邂逅がまずあるのではないかと思う。

複数の小説家が、小説を創る時はまず主題を思い浮かべる、と言う。主題をごく短い一文で書いてみて、それが面白いかどうかを考慮して、面白いと感じたら次の創作ステップに進む、と言う。つまり、テーマから創り始める、ということだろう。

テーマから考え、次いでエピソードを揃えていくとしたら、それは演繹的だ。しかし私は、はじめに噺(コント)ありき、で考えていくのが良いと思っていて、つまり、小さなエピソードがいくつかあって、それらがやがて大きなテーマを表現するに至るのが自然なのではないか。それは演繹ではなく帰納だ。

とはいえ、エピソードというのは探し始めれば無限に出てくるもので、その中から「これは面白いぞ」と思えるのもを抽出するには、やはり頭の中にテーマの概念か想念らしきものが漂っているからに違いない。作家の中に「気になっていること」があるから「ピンとくる」のだ。

「如意にならぬが浮世かね」

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泉鏡花の小説を読み始めたのは大学に入ってからだ。

最初に読んだのはやはり「高野聖」(『歌行燈・高野聖新潮文庫、1950年所収)で、次いで澁澤龍彦編『暗黒のメルヘン』(立風書房、1990年))で「龍潭譚」を読んだり、澁澤が最初に感動したらしい「照葉狂言」を読んだりした。谷崎潤一郎がシナリオ化した「葛飾砂子」なんかも読んだ。

筑摩書房「明治の文学」シリーズは、全体の編集は坪内祐三だが第8巻「泉鏡花」(2001年)は四方田犬彦が編集している。たしかこれも大学時代に手に取ったはずで、帯に書かれている「如意(まま)にならぬが浮世かね」は、本アンソロジー所収「義血侠血」に出てくる。

この短篇は溝口健二監督の映画『瀧の白糸』の原作で、他にも新派劇やテレビドラマやオペラにもなっているようだ。

台詞は、法律の勉強をしたいが東京にも行けず越中高岡の馬車会社で乗合馬車の馭者をしている男が、女に身の上話をする中で言う言葉で、私はこの言葉がけっこう好きである。

そう。世の中は思い通りにはならない。明治時代と今ではだいぶ環境が違うのでずいぶん事情も違うだろうけれど、本質的にはそう変わらないようにも思う。

この言葉が好きなのは、(小説を読めばわかるのだが)世の中が思い通りにならないのは悔しいのだが、主人公の男はさほど悶々とはしておらず、自分の辛い状況を相手の女にさらりと言ってのけるところだ。そこには鏡花らしい、気っ風の良さというか、潔さのようなものがあるように私は思う。世の中は思い通りにはならない。それは仕方ない。それでも前を向いて進んでいこう、といった気持ち良さがある。

世の中も他人も思い通りにはならず、思い通りになるものと言えば、せいぜい現在の自分だけだ。だから未来を変えるには、現在の自分から変えるしかない。

映画『カメラを止めるな!』を観た。

評判だったけど観ていなかった映画『カメラを止めるな!』(2017年)をやっと観た。

BSの「アナザーストーリーズ」でこの映画の製作秘話を放映していて、せっかくなので本編を観ようじゃないかということで観た。

面白かった。「アナザーストーリーズ」で上田監督は、面白い映画を作りたい、などと話していたが、その通りとにかく面白い。もう一回観たいかと言われるとそれほどではないのだが、ああそういうことだったの?と思わされる場面がいくつもあり、笑えるところもあって楽しかった。

まず劇中劇があって、これがやたらチープにできていて不自然にも感じられるのだが、後半でその種明かしが展開される。そこでは、予想外のトラブルが連発するものの映画チームのメンバーが力を合わせて乗り切っていく様子がテンポよく描かれる。またその過程に、家族の絆とかものづくりの姿勢についての監督の哲学めいたものが織り込まれている。

「アナザーストーリーズ」の方を私は先に見たのだが、劇中劇の30分以上にわたるワンカット、よく撮ったなぁと思った。カメラのレンズに血糊が付くところがあるが、カメラマンは予定外だがすばらしい展開になったと思ったらしく、実際に映画全体において効果を上げていたと思う。

とにかくテンポがいい。劇中劇とその種明かしもそんなに複雑でなく分かりやすい。緯糸、つまり家族の絆やものづくりの姿勢もごく一般的に受け入れられやすいものであり、後味がすっきりしている。言うなれば類型的とも言える作品で、だからこそべつにもう一回観なくていいや、という気もする。

また、後半部分を観ていて、私は自分の学生時代の映画づくりを思い出してしまった。この映画のように、作品を完成させる方へ皆の力が結集されていくとすばらしいと思うが、私が経験したのは、ガキが集まってめいめい自分勝手なことを言い合ってチームが崩壊寸前まで行ってしまったという、情けない映画づくりだった。。そういう、『カメラを止めるな!』とは逆方向へ展開していく話を書いてみるのはある意味で面白いかも知れない。

電縁

会ったこともなく、声を聞いたこともない人がいる。

TwitterInstagramで相互フォローして、コメントを交わしたことがある人のことだ。その人たちは、SNSがなければ決して知り合えなかった人たちで、そういう縁を私は電脳空間の縁、すなわち「電縁」と呼んでいる。

TwitterInstagramも、このブログを拡散するために利用していたSNSで(まあTwitterの方をブログより早く始めたわけではあったが)、とはいえつぶやきや写真を投稿するには割と考えなくてはならない面もあり、一時はこれらをやめてしまおうと思ったこともある。

しかし、やめなかった。すでに双方のSNSで電縁が発生していたからだ。それらの縁は、断ち切ろうと思えば難なく断ち切れるものではあるが、私にとってはかつてない縁の形でもあったので(かつてmixiなどで同様の縁を結んだ人もいたにはいた)、今も継続している。

私自身の実感から言うと、地縁、血縁、社縁のうち、出身地の縁はほぼ完全に消えてしまったと言える。地元の縁は、微々たるものだがないわけではない。血縁と社縁は濃厚に残っている。そして、そこにわずかではあるが電縁が加わっている。

まぁこんなのは今のようにSNSが普及する前からあったことだ。私自身、思い返せば二十年くらい前にネット掲示板で言葉を交わした人がいた。思えばあの頃から電縁はあったんだなぁと思う。

やる・やらないの差

昨日は、少年や青年のような立場の人には「やるかやらないか」の判断基準が重要、と書いたが、今日はもう一歩突っ込んでみよう。

やる・やらない、という二つの行為には歴然たる差がある。だからこそ、少年や青年にとってはことさら重要なのだと言える。

例えば、昨日も例に挙げた海外放浪とか起業。これらは若い頃にやるのとやらないのとで、その後の人生に大きな影響が出るのではないかと思う。未知の世界とか、自分の可能性とかいうものにチャレンジした経験があるのとないのとでは、当人の青春の燃焼度が大きく違ってくると思うのだ。

私自身、大学を卒業した後に映画学校に入り直したのは、それをやらなければ気が済まなかったからで、学校に行かずに就職などしていたら後悔と自己嫌悪に苛まれてどうなっていたか分からない。まぁ、学校に行ったはいいが映画の道には挫折して無力感に苛まれ、一時期は酒ばかり飲んでいたのではあったが。。

とはいえ、私は反省する部分はあっても後悔などはしていない。やる・やらないの瀬戸際で「やる」を選択したことは、我ながらよくやったとも思っている。

私は、「やる」人間は愚かかも知れないが偉大だと思っていて、「やらない」人間は賢いかも知れないが卑小だと思っている。実行するには思う・願うよりも大きなエネルギーを要するからで、実行に伴うリスクも背負わなくてはならないからだ。昨日の記事で考えると、志々雄に復讐しようとした栄次は、愚かかも知れないが偉大だったと思うのだ。

世の中には、自分は「やらない」人間なのに、「やる」人間に対し偉そうに意見や批評を投げつける無礼な奴がいる。「やらない」人間は、「やる」人間よりも卑小なんだから、心配して支援したり応援したりするのは構わないが、見下して偉そうなことを言うべきではないだろう。

私の周りには、そういう偉そうな「やらない」人間が何人もいた。ほんとサイテーな奴らだったな。

やるかやらないか、できるかできないか。

出来る出来ないかの問題じゃねェ!! やるかやらないかだ‼

和月伸宏先生の「るろうに剣心」に出てくる少年・栄次のセリフです。細かい文脈は忘れてしまいましたが、志々雄真実に支配された村の子である栄次が志々雄に復讐しようとして、無理だから止めろなどと他人から言われたのに対して言い放った言葉と記憶しています。

私はこの言葉が好きで、行動の基準を「できる・できない」ではなく「やる・やらない」にするのは大切だと思います。栄次は、無理だろうがなんだろうが、「やる」ことに重きを置いているわけで、上記セリフは、リターンが見込めずとも実行をする、という男らしいロマンに満ちた言葉だと思います(まぁ復讐に関する言葉なのですが…)。

さて、私は「るろうに剣心」にはたしか高校生の頃に没頭しましたが、漫画に限らず、心に残った言葉はその後も何度も胸の中で唱えてみて、いかなる場合にもその言葉は金言たり得る力があるのかどうかを考える癖があります。そして栄次の上記セリフも、何度も繰り返し唱えてみてその強さを確かめてみました。

その結果、あることに気づきました。「やるかやらないか」は、守るものがない立場、すなわち少年や青年にとっては重要であるものの、守るものがある立場である大人、特に親である人は、そういう基準で決めるのは賢明ではなく、「できるかできないか」で考えるのが妥当だということです。

例えば海外を放浪するとか、借金をしてでもやってみたいビジネスを始めるとか。これは学生とか未婚の二十代とかだったら、失敗するか成功するかじゃなく、「やるかやらないか」で青春の後味が違ってくるでしょう。一方で社会人として生きていて結婚して子供もいるなどとなると失敗なんてできなくなるので、「できるかできないか」を重視しなくてはなりません。放浪とか起業とかはロマンでしかなく、むしろやらない方が後も安心なわけです。

だから、子供である栄次にとっては、志々雄に復讐するかどうか、やるかやらないかが重要なのです。あれが大人の村人だったら、復讐なんてせずまずは生き延びて機会をうかがう、といった戦略を取ることになるでしょう。大人の世界は、戦うことそのものでなく、勝つことが大切なのです。

しかし。では大人は「やるかやらないか」で判断してはならないのかというと、そうとは言い切れません。大人だって、「できるかできないか」じゃなく「やるかやらないか」で考えるべき時はあると思います。

相対的に「できるかできないか」で判断するべき場面が増える、というだけで、長年の夢とか、逃げるわけにはいかない人生や仕事における大勝負、意地でもならなきゃ気が済まないこと…。そういうことは、人間だったらやはりあるだろうと思います。それは相当のリスクがあることも十分に理解した上で、「やるかやらないか」を基準にして判断するべきではないかと思います。