杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

「板橋史談」が面白い

板橋史談会は、板橋の歴史や文化財の調査・研究や史跡巡りなどの催しをしている1964年設立のアマチュア団体です。

私は所属していないのですが、この会が出している会報「板橋史談」は板橋の郷土史を実に細かく調査した成果が掲載されており、歴史が好きな区民としては面白い限り。また同会の『いたばし郷土史事典』もとても楽しい読み物です。

郷土史を知る面白さとは、日々の生活や日常生活の身の周りにある事物に歴史を感じることができることだと思います。地味で素朴でつまらないと思う人は少なくないかも知れませんが、司馬遼太郎歴史小説を書くに際して舞台となる地域の郷土史家に話を聞きに行ったことを思うと、そうとは言い切れないでしょう。

「板橋史談」は現在も定期発行されているので、これからも読み続けたい。また、私は「史談」を全て読んだわけではありませんが、私が読んだものは主に近世以前の事象を記述の対象にしているようです。私としては近代以降、特に現代の板橋の歴史を調べ、書いていきたいと考えています。


数学と夢

5月23日に放送された「ニンゲン観察バラエティ モニタリング 3時間SP」を見たのですが、メンタリスト・DaiGoと東大生の弟・松丸亮吾の会話が興味深かったです。

DaiGoが「数学的な能力が高い人間は人生がイージーモードになるという研究が」ある、と言い、松丸もそれを聞いたことがある、という会話。

数学的な能力が子供の頃に高かった人は人生において問題を抱えづらく、収入が高く、人間関係もいい、とDaiGoが言うと、松丸は、数学が得意だと問題解決のプロセスが上手くなる、(数学は)問題をどう解くかのアイデアや論理性が問われる、などと答えていました。

イージーモードとは、難度が低い、ということで、数学的な能力が高い人は人生楽勝、ということ。なるほど。私がこれまでハードだと思っていた自分の人生は、数学的な能力が低かったことが原因だったのかな、などと思いました。

私は大学を出て映画学校に入りましたが、脚本家兼映画監督になるんだ、という、具体的なようで具体的でない夢を抱いていただけでした。自分では、やりたいことをやっている価値ある生き方だと思っていましたが、そのやりたいことは決して具体的でなく、要は馬鹿で無謀でしかなかったのだと思います。

数学の能力が高い人でも夢を抱くことはあると思います。夢を追う、ハイリスクなことにチャレンジすることは有り得るわけで、私が映画の道を進んだように、将来が保証されているわけではない道に進むことはあるでしょう。現にDaiGoだって松丸だって、ああしてテレビに出てタレント活動もしているわけだから、先が読めないことをやっていると言えます。

思うに、数学が得意な人、言い換えると物事を筋道を立てて考える人は、思考や行動が具体的なのでしょう。映画で例えれば、私のように、映画監督になる!などと考えるのではなく、これこれこういう内容の映画を作ったらきっと面白い、と思っていて、その上で、この作品で勝負してみたい!があるのではないか。

夢を抱くのはけっこうですが、実現までの筋道が立てられないようならそれは夢でしかない、ということでしょうか。いや、そうじゃなくて、これが楽しい、これが好きだ、ということが最初にあって、そこから筋道を立てて考え、行動していけば、大きな目標も達成できるかも、ということだと思います。

困ったクイズ出題者

ライターとして仕事をしていると、しばしば困った発注者に遭遇する。

ある日はこんな人に遭遇した。ヒアリングに伺い、その場で記事の構成や原稿のポイントについて話し合い、合意を取ったにも関わらず、その通りに記事を作って出したら「ヒアリング時に話した通りになってない」などと言い、「作り直してくれ」と言うのである。驚いて内容を見直すと、取材時に話したことは明らかに原稿に書いてある。ではどうして「話した通りになってない」と思ったのか…。

私はそのことを確認するため、取材時にはこれこれこういう打ち合わせをして、確かに合意したと記憶しているが…もしそうでなかったなら再打ち合わせが必要ではないか?といった返事をした。

すると相手は、私との話を打ち切ってしまい、「こういう感じで改めて作ってくれ」と新しい構成案を送ってきたのだ。相手は私の仲間と電話で話したらしく、その仲間が言うには、どうやら相手は私の反論に半ば呆れている、とのことだった。

まぁ、相手が少々いきり立った調子で言ってきたのに対し、私もちょっとムッとしたのは事実で、反論にはそれなりの熱がこもってしまった。また相手に構成を作り直させてしまった、ということは反省している。

けれども納得できなかったのは、相手が出してきた構成案がヒアリングで合意を得たのとはずいぶん違うもので、逆に原稿の内容については、盛り込まれている要素が私が最初に書いたものとほぼ同じだったことだ。つまり、私はべつに大きな間違いを犯していなかったことが、相手の新たな構成案によって証明された。私はその内容で文章化を進めたのだが、その後で原稿が再度差し替わるという憂き目にあった。

この事故は、お互いが納得するまでコミュニケーションを取らなかったことに原因があると思われる。しかし私自身はヒアリング時に納得しており、そのことを相手ともきちんと確認したとも思っているし、その後の「話した通りになってない」に対しても、事実を元にした議論を試みたのである(上述の通り、ちょっと感情が入ってしまったのだったが…)。

とすると、相手の方が、私とのヒアリング時に納得するまで話し合わなかったのが最大の問題と言えるのではないか。あるいは、ライターならばこれ以上言わなくてもきちんと伝わっていると思い込んでいたのだろう。また私との議論を拒んだのには、うるさいライターとはこれ以上話したくない、という侮蔑の色が見られた。さらに、その後、明らかに打ち合わせ結果とは異なる内容の構成案を送ってきたことについては、何の説明もなかった。

つまり、納得に至るまでのコミュニケーションを拒んだのは相手の方だったと私は思っている。また、恐らくそこには、ライターごときが生意気な…といった見下しと軽蔑の感情もあったのではないかと感じる。

そういう発注者は、クリエイターからすると、少ないヒントで問題を突きつけてきて、回答を出したら「違う」などと言って突き返してくる、困ったクイズ出題者でしかない。

こちらはクイズをやっているのではないのである。クリエイターに仕事を発注し、きちんと形にしてもらいたいなら、自分の考えを全体から細部に至るまで具体的にクリエイターに伝えるべきだろう。そういう地道な作業を怠っておきながら、クリエイターが十全なものを作ってくれると考えるのは単なる怠慢だと思う。

上記のようなクイズ出題者に遭遇してしまった場合、なるべく感情的にならず、かといってクイズに正解しようなどと無駄な努力をしないことが大切。あくまで冷静に、理詰めで解答に辿り着く道を探るのが良いと思う。

一日がもうちょっとあれば…

毎日ブログを書くこと自体は、実はあまり苦じゃない。ブログネタは割とすぐに見つけられるし、書くのは得意なので一つの記事を仕上げるのにそんなに時間がかかるわけでもない。

しかし、大好きな調べ物を前提にした書き物は、毎日やるのが今のところはけっこう大変だ。それなりに時間がかかるからだ。

ネットで調べて済むようなら話は簡単なのだが、書籍、絶版本、昔の新聞記事を読まねばならない、あるいは調べ物に関わる場所を訪ねなければならないなどとなると、資料を目の当たりにして新たな発見をするまでにけっこう時間がかかってしまう。だから私は週末や休暇の日はなるべく文献資料に当たる時間を作るようにしている。上手いこと調べ物が捗ると、ネタがざっくざっく出てくるような感じになって、楽しい。

それでも、あるまとまった書き物をしようとすると、ブログ記事のための調べ物とは比べ物にならないくらい調べなくてはならない。

これを、勤め人をしながら根気強く続けるのは楽じゃない。それをしなくてはライフワークが前進しないわけだが、一日の大半を会社勤めに費やし、さらに自分の時間を作って取り組むのはしんどい。

一日がもうちょっとあればいいんだがなぁ、と思う。愚痴。

書いて書いて書きまくる2

霧生和夫『バルザック』(中公新書、1978年)は、バルザック伝でありバルザック論でもある。バルザックの伝記は複数あるが、私は今のところ本書と鹿島茂『パリの王様たち』(文春文庫、1998年)しか読んでいない。

その中に、「人間喜劇」全九十一篇の作品を発表年順に並べたページがある。私はときどきバルザック作品を読むようにしており、読破した作品についてはこの一覧のタイトルに印を付けている。

戯れに、全九十一篇の発表年と題名を並べ、読んだものに〇を付けた。ちなみに太字になっている二十篇は、霧生が「人間喜劇」中で特に重要と思っているものだ。

一八二九年  『ふくろう党』
       『結婚の生理学』
一九三〇年 〇『恐怖時代のエピソード』
      〇『エル・ヴェルデュゴ』
       『女性研究』
       『ヴェンデッタ
       『ゴプセック』
       『ソーの舞踏会』
       『まり打つ猫の店』
       『二重家庭』
       『家庭の平和』
       『アデュー』
       『不老不死の妙薬』
一八三一年  『徴集兵』
       『追放者』
       『麤皮(あらがわ)』
       『赤い宿屋』
      〇『知られざる傑作』
       『フランドルのイエス・キリスト
       『サラジーヌ』
       『コルネリュス卿』
一八三二年 〇『ことづけ』
       『フィルミアニ夫人』
       『シャベール大佐』
       『グランド・ブルテーシュ』
       『財布』
      〇『トゥールの司祭』
       『捨てられた女』
      〇『柘榴屋敷』
       『ルイ・ランベール』
一八三三年  『マラナ家の人々』
       『フェラギュス』
       『田舎医者』
      〇『ウジェニー・グランデ』
      〇『名うてのゴディサール』
一八三四年  ランジェ公爵夫人
      〇『絶対の探求』
       『海辺の悲劇』
一八三五年 〇ゴリオ爺さん
       『金色の眼の娘』
       『神と和解したメルモス』
       『結婚の契約』
       セラフィタ
一八三六年  『禁治産
       『無神論者のミサ』
       『ファチーノ・カーネ』
       谷間の百合
       『呪われた子』
       『老嬢』
一八三七年  『平役人』
       『ガンバラ』
       『セザール・ビロトー』
一八三八年  『ヌシンゲン商会』
一八三九年  『イヴの娘』
       『村の司祭』
       『カディニャン公妃の秘密』
       『マッシミラ・ドーニ』
       『骨董室』
一八四〇年  『ピエレット』
       『ピエール・グラスー』
       『Z・マルカス』
       『ボエームの王』
       『ベアトリクス
一八四一年 〇『暗黒事件』
       『ユルシュル・ミルエ』
       『二人の若妻の手記』
       『偽りの情婦』
       『カトリーヌ・ド・メディシス
一八四二年  『アルベール・サヴァリュス』
       『人生の門出』
       『ラブイユーズ』
       『三十女』
       『続女性研究』
一八四三年  『オノリーヌ』
       『いなかミューズ』
       『幻滅』
一八四四年  『モデスト・ミニョン』
       『ゴディサール二世』
一八四五年  『実業家』
       『結婚生活の小さな不幸』
一八四六年  『知らぬが仏の喜劇役者』
       『従妹ベット』
一八四七年  『従兄ポンス』
       『アルシの弁護士』
没後     『浮かれ女盛衰記』
       『現代史の裏面』(三部作)
       『プチ・ブルジョア
       『農民』

こうしてみると、自分が読んだ作品が少なくて情けない。。

また、特に三十代前半の旺盛な執筆量に驚かされる。そして霧生の太字を元に考えると、バルザックといえど重要作が割合としていかに少ないかがわかる。やはり、書いて書いて書きまくって、大量に生み出した作品の中に、真珠のように少しだけ傑作が生まれるのだろう。

踏潰すまで

夏目漱石の「私の個人主義」は、学生時代に『漱石文明論集』(岩波文庫、1986年)で読みました。これをごくたまに、今でも読み返すのですが、国家とか社会とか個人についての漱石の洞察の鋭さ、奥深さにいつも感服します。私は漱石は小説家としては偉大だと思いませんが、二十一世紀の現代にも通じる文明観や個人主義の考えを明治時代にすでに明確な言葉にしていた点で偉大だと思っています。

このほどぱらぱらと読み返し、改めて考えさせられました。漱石が英国に官費留学などして文学に打ち込み、煩悶した結果「自己本位」の考え方をするようになった、という経験談若い人たちにした後の、こんな箇所です。

 それはとにかく、私の経験したような煩悶が貴方がたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年、二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああ此処におれの進むべき道があった! 漸く掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。既にその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああ此所だという掘当てる所まで行ったら宜かろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もし何処かにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――尤も進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに打つかる所まで行くより外に仕方がないのです。

長く引用しましたが、大切だと思うのは最後の方の「踏潰すまで」です。

私は「悶え苦しめば成長できる」「頑張れば不可能はない」式の精神論が大嫌いで、先輩のライターにそういう風なことを言われてはほぼ例外なく心の中で反発していました。人間はサイヤ人ではないので痛めつけられれば成長できるなどということは決してなく、勉強を重ねれば重ねただけ知識が身に付き、一歩一歩、前進することができるのだと考えています。

しかし、では精神論というものが全く不要なのかというと、そうは言い切れません。なぜかというと、漱石が言ったように、容易に打ち壊されない自信というものは、煩悶するくらいまで「何か」を問い詰め、その「何か」を文字通り踏潰すまで進まなければ得られないと思うからです。それは、勉強とかコツコツ努力とかをすれば乗り越えられることを超越していると思います。その領域まで足を踏み入れるには、執念とか意地とか、そういうものが必要になるんじゃないかと思います。

それはたった一人の、文字通り孤独の戦いに違いありません。周囲の誰かが助けてくれるわけでもなく、気づいてすらくれないでしょう。しかしたった一人で悶え苦しんだ経験は、きっと自分だけの宝物となり、それから先の人生を歩く揺るぎない自信を与えてくれると思います。

私は取材をして原稿を書くライターをやっていて、時に後輩を指導する場面もあるわけですが、精神論など口にしませんし、どちらかというと後輩がなるべく効率よく学び、成長していけるよう考えて教えています。しかし心の中では、当人には楽な道なんて歩かず、寸暇を惜しんで勉強や修練をして、七転八倒してもらいたい、そうした末にライターとしての自信を摑んでほしいと思っています。

公園にて

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公園を散策するのがわりに好きで、週末などに時間ができた時、ないし息抜きしたい時などはよく出掛けて、ぼぅっとしながら歩いている。

近所の公園は雑木林があり、朽ち木がそこかしこに落ちているだけでなく、それを役所が半ば意図的に撤去せずにいるらしく、そこは生き物の大事な棲家になっているようだ。落ち葉も多く、その下は夏でもひんやりとして気持ちいいのだろう。

そういうところならカブトムシやクワガタに会えるかも…と思ったので、先日、試しに幼虫を探してみた。カブトムシの幼虫は土の中にいるので見つけられなかったが、落ちている朽ち木を割ってみると、かなり湿り気があってまさに幼虫が育つ理想的な状態だった。そして案の定、クワガタの幼虫と思われる虫が何匹も出てきたのだ。

東京23区の中に、野生のクワガタが棲息している場所があるとは、正直に言って思っていなかった。しかし実際に複数の幼虫が出てきたので、その公園では夏になるときっと何匹ものカブトムシやクワガタに出会えるだろう。そんな風に思うと嬉しくなった。

都心のコンクリートジャングルの中で日中を過ごしているので、虫を見たり森林に行きたいなどと思うと、どうしても電車に乗って遠方に出掛けようと思いがちになる。しかしそんなことをしなくても、自宅から遠からぬ場所にある公園に行けば森林があるし、カブトムシやクワガタにだっているのだ。