杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

口先だけの人

こないだ、連合赤軍の元メンバーの現在を取材したNHKの特集番組を見た。

その中で、元メンバーの一人が、当時の自分たちが思い描いて信じていたのはただの幻想に過ぎなかったのではないか、などと言っていて、私は、まぁそうだろうと思った。

私は学生運動とか連合赤軍などを詳しくは知らないのだが、かつて学生運動をやっていた人なら知っている。そして私はその人を、思い込みの激しい単なる馬鹿、と結論づけている。連合赤軍の元メンバーの言葉に対し「まぁそうだろう」と思ったのは、その人への思いと重なったということだ。

その人は、政治家や大企業の経営者への批判をよく口にするが、ただ言葉で言っているだけで、政治や経済を良い方へ変えていこうとする活動も努力もしていない。その人の言わんとするところに耳を傾けると、要するに、今の世の中は良くない、昔は良かった、と言っているだけであることが分かる。俺は正しい、俺は昔はすごかった、という風にもよく言う。

口先で偉そうに語っているだけで行動はゼロ。偉そうに話す相手は、自分よりも立場が下の人であり、私もその一人だった。私は少なからずその人に影響されてしまい、政治家は馬鹿だだの、大企業の経営者なんて金儲けが巧いだけの大したことない奴だだのと、わかった風な顔をして口走っていた。

しかし、勉強するにつれて視野が広がり、その人の言っていることに納得できなくなって口論したり喧嘩したりなどして、次第にその迷妄から脱していったが、それ以前の自分を思い返すと、なんちゅう馬鹿な奴だったんだと忸怩たる思いがする。

口先だけの人になってはいかんと、強く思うのだ。

シャンパーニュのノートル・ダム

パリのノートルダム大聖堂が焼損したが、私は最近、バルザックの『暗黒事件』(岩波文庫、1954年)を読み、シャンパーニュというかつて州だった場所に「ノートル・ダム僧院」があったのを知って、「ノートルダム」という教会が多様に存在することも知った。

 ノーデムの森は、ノートル・ダム僧院と呼ばれた修道院に屬してゐた。古い昔この修道院は占領され掠奪され破壞されて、修道士も家財什器も悉く消え失せてしまつた。あたりの渴望の的だつた森はシャンパーニュ伯家の領地に繰り込まれたが、のちになつて伯爵家はそれを抵當に入れ、やがて賣りに出されるのをそのまま見送つた。六百年といふ月日が經つうちに、自然の豐饒な力强い綠のマントが廢墟をすつかり蔽ひ隱してしまつたので、ここに世にも美しい僧院が存在したことを物語るものは、もはやほんのちょつとした低い丘が一つあるだけにすぎなくなつた。

ちなみに「ノーデム」とは「ノートル・ダム」が訛ってそう呼ぶようになった、と書いてある。

いったいどんな「世にも美しい僧院」だったんだろう。こないだ焼損したのより美しかったのかな…などと色んな想像を巡らせた。

ノートルダム(Notre-Dame)とは、「私たちの貴婦人」という意味だそうだ。

少年ジャンププロレタリアート

Twitterで「少年ジャンププロレタリアート」という言葉を見かけたのですが、ググってもどうもそういう用語や言説があるわけでもないようです。Twitter上で検索しても、どうやらつぶやいた人が削除したのか、もうその用例にも接することができなくなっているのですが、この言葉に、私は何か、引っ掛かるものがあるのです。

というのは、私自身が、幼少期に少年ジャンプに濃密に接して育ち、やがてクリエイティブ業界においてプロレタリアートになった人間だからで、これはどうも放っておけない言葉なのです。

そこで、以下「少年ジャンププロレタリアート」について思うところを記してみます。

思うにそれは、私のように幼少期に少年ジャンプの漫画に心を打たれ、多大な影響を受けて、その幻想を抱えたまま成人して知能・肉体の労働に従事している人、という意味を持つのではないでしょうか。

またその裏には、あまりに極端な勝利・成功のイメージないし誇大妄想を抱え、そして性的には潔癖であるなどの傾向を持つために、実社会における他人とのコミュニケーションに支障をきたしている人、といった意味も含んでいる気がします。

ジャンプといえば「友情・努力・勝利」で、特に私の幼少期にヒットしたお化け漫画といえば、「北斗の拳」、「ドラゴンボール」、「スラムダンク」、「ジョジョ」、「幽遊白書」、「ONE PIECE」などなど、枚挙にいとまがありません。それらはほぼ例外なく、主人公が誰よりも強く無敵で、苦戦を強いられつつも必ず勝利し、仲間とは固い友情で結ばれています。そして性的には潔癖とさえ言えるほど清潔です。まぁ、少年ですからね。

無敵、友人との固い友情、そして性的に清潔。そんな主人公像ないし物語の傾向に影響を受けると、どうなるか。自分は何でもできる最強の人間で、仲間と信じた奴との友情は強固で決して歪まず、といった幻想を持ち、恋愛にはあまり関心がない(あるいは異性との普通の関わり方を知らない)…そんなイメージを持つよう育っていくような気がします。

けれども実際の社会というのはもっと多様で複雑です。自分は決して最強ではないし、友情の形も曖昧で、異性と関わる場面も多い。それだから、当人は一種のコミュ障になり、思い通りにならない実生活ないし仕事人生を送ることになるのではないでしょうか。それが、少年ジャンププロレタリアートの姿ではないか、という気がします。

もちろん、他の雑誌の漫画や映画でもそういうことは起こり得ると思います。ぜんぜん比較検討しておらず、ただの雑感に過ぎません。しかしジャンプのような、パワーインフレが顕著で中毒性が高いと思われる漫画群に接した人は、そういう傾向を持ちやすいと思うのです。

前進強迫観念

人間という生き物は、ただ生きているだけでは充足せず、精神的な満足も求め、さらに同じ満足感は一度経験すると麻痺してしまい、次にはさらに質の高い、高濃度の満足感を求めるようになっている。

人間の最大の敵は退屈だ、というようなことを言った人がいたが、そうかも知れない。どんな満足にもたいがい飽きてしまい、次にはもっと強烈な満足が欲しいと思う。どんな満足もいつか飽きる。そうして、飽くことなく満足と刺激を求め続けるのだと思う。

さらに私は、人生とは退屈との戦いだというのも正しいと思うが、前進への強迫観念だとも思う。生活をもっと向上させたい、技を磨きたい、今いるところから進みたい…。これらはぜんぶ強迫観念ではないだろうかと思う。

ある程度やたからそろそろここでお暇して後はのんびり生きよう、そんなことを思ってもそうは問屋が卸さない。隠居生活などすぐに飽きる。前進への強迫観念は容赦なく当人を襲い、当人は焦燥に駆られる。

前進し続けるしかない。後退などないのだ。

いきなり突飛な比喩だが、国が経済的にも文化的にも成長するのを止めて後退してもいいじゃないか、忙しいくらいなら少しくらい貧しくても心が豊かな方がいいじゃないか、などの主張を唱える人がいる。しかしそんなのは不可能だと思う。後退したならしたで、その安穏とした生活にやがて飽きて、次は前よりもっと高い速度で成長したくなるだろう。

未来のことなんて忘れろ!

何かに夢中になるって未来を忘れることです。明日の仕事とか週末をどうしようなんて考えている状態はしょせん未来にばかり気がいっちゃってて今現在を生きていないということだと思います。私は小説を書いているんですが毎日書き続けるのって決して楽ではなく、その日の仕事を終えた後に原稿に向かうのはわりかししんどいです。それでも書き続けるには忍耐とか努力を超えて夢中になる必要があるんじゃないかと最近思っています。さてでは夢中になるためにはどういう心理状態まで持っていけばいいかというと明日のことなんて頭から吹っ飛ばして、何時に寝なきゃいけないとか体が疲れているから明日の仕事のためにセーブしとこうかななんてことを忘れちゃうことです。もちろんじゃあ今日はこっから徹夜してやろうなんていうつもりで取り掛かるわけじゃありませんが、もし夢中になり過ぎたら朝まで本当に寝るのも忘れるかも知れませんし、そうなったらそん時ゃそん時ってくらいがちょうどいい。要するにそれくらい好きになれるか、夢中になれるか、ってことがけっこう重要な気がします。これはワナビの人ならいくぶんか共感してくれることのような気がしますが自分へのメッセージでもあります、はい、未来のことなんて忘れろ!

やってくれたら嬉しいこと、やってくれなきゃ困ること2

このブログで以前「やってくれたら嬉しいこと、やってくれなきゃ困ること」を書きましたが、あれはどちらかというと価値を「提供する側」への印象や見解でした。けれども最近、「提供される側」についても似たような印象を持ちました。

価値を提供される側、つまりお客さんですが、どうもその中にも「やってくれたら嬉しいこと」と「やってくれなきゃ困ること」を勘違いしている人がいるようで…。というのは、やってくれたら嬉しい=満足を、提供してくれないと困る、と思っている人がいるようなのです。

価値を提供する側は、頭脳や肉体の労働によって何らかの価値を生み出して提供するわけですが、それは、お金を払って提供される側からすると「やってくれなきゃ困ること」です。しかし、満足、つまり「やってくれたら嬉しいこと」ですが、これは「やってくれなきゃ困ること」ではありません。

分かりやすい例が(前回も使った)飲食店です。例えばラーメン屋でラーメンを食べる場合、それが本人が美味しいと感じるかどうかは前もって分かりません。前回は美味しかったけど今回は美味しくなかった、なんてこともあります。しかし、では仮に不味かったとしても、だからといって、満足してないから作り直してくれ、とか、金返せ、なんてことは言ってはならないはずです。いや…言うのは自由ですがまぁ普通は通らないでしょう。

上記は分かりやすい例えですが、サービス業的な仕事になるとこれが分かりにくくなり、勘違いするお客さんが増えるんです。つまり「満足がもらえないと困る」と考え、実際に要求してくる人がいるんです。

もちろん人間である以上、満足を求めるのは当然です。満足できるようあれこれ要求するのも当然だし、構いません。けれど満足できなかったからといって、俺を満足させられないお前は駄目な奴だ、というのは事実ではないし、金は払えない、というのも通らない、ということです。

そりゃ、提供する側は「必ずやご満足いただけるよう、精一杯サービスします」と言いますよ。「私たちはお客様にご満足を提供します」と言いますよ。しかしそれは宣伝文句に過ぎません。「満足を提供する」という「約束」ではなく「意志」に過ぎません。もし仮に「約束」にしちゃったら…その商売はまず間違いなく破綻を来すと思います。世の中にはいろんなタイプの人間…何をやっても満足しない人などもいるからです。

前も言いましたが、こういうことを言うと、冷めたつまらない奴だと思われるようです。けれど私は仕事をつまらなくしたいわけじゃなく、そういう勘違いが罷り通ってしまうと価値を提供する側も困っちゃいます、商売が破綻しちゃいます、と言っているんです。

簡単です。満足できなかったなら、次から断りゃいいんです。もちろん、次に頼む相手が必ず満足を提供してくれるとは限りませんよ。でも、そんなことを言うと本当に冷めてますね。こっちだって価値を提供する以上、満足してもらいたいと思ってます。だから満足を求めないでくれ、と言ってるんじゃないです。満足を求めているなら、価値を提供する側ときちんとコミュニケーションを取りましょうね、ということです。

意欲と継続の精神

講談社「本」3、4月号の池上彰「伝える仕事」(第12、13回)は、池上さんが独立し、フリーランスになっていく過程が書かれている。

池上さんは「こどもニュース」を担当するようになってから本の執筆依頼を受けるようになり、仕事の幅が広がった。ここからNHK退社後も携わる仕事につながっていくのだが、池上さん本人は元々NHKに残って解説委員になるコースを頭に描いていたという。NHK内でのその他の出世コースもあったが、「一(いち)ジャーナリストの立場を貫けるのは解説委員しかないと思ってい」たようだ。管理職にならず、あくまで現場で動くことを目指していたのだ。

しかし解説委員長には、君は解説委員にはなれないぞ、と言われた。理由は、専門性がないから、とのことだった。

生意気ながら、このエピソードに対し、ライターの道も同じようなものだろうか、と私は思った。どんな仕事も引き受けて書くマルチライターは、若い頃は安くたくさん動けるので重宝されるが、専門性を持ち、それを磨いていかないと単価を上げていくことは難しいと思う。専門ライターの道は、署名原稿を書くことや、ひいてはある種の作家になっていく道にもつながっていくと思うが、そうでない道を行くなら、編集者やプロダクション経営など、つまりライターの仕事を管理する道に行くことになるのが多いと思う。池上さんも、ある意味でそういう岐路に立ったのではないか。

池上さんは、ある分野に詳しくなる専門性より、「ものごとをわかりやすく説明すること」に自分の専門性を見出し、その道でやっていこうと考え、NHKを退職する方へ進んでいく。しかし、出版社の編集者にはNHKの看板を背負っていく方が良い、フリーで食っていくのは難しいと言われる。池上さん自身、これをもっともなアドバイスと捉えているが、それはそうだろうと私も思う。

しかし池上さんの意志は固く、NHKの記者からノンフィクション作家になっていった柳田邦男の背を追うように、フリーの道を選ぶ。

その後、池上さんは「NHKの」という肩書が通用しない中で仕事をするようになり、一方ではNHKでの経験が糧となって仕事が入ってくるようになる。

池上さんがNHKを辞めたのは五十四歳の時だが、池上さんほどの人でも、組織の中で出世していくか、専門性を伸ばしてフリーになるかでけっこう考えたのだ。どちらの道もあったのだろうが、やはり自分が好きなこと、それを続けていきたいという意欲と継続の精神があったことが決め手になり、道を開く力にもなったのだと思う。