杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

踏潰すまで

夏目漱石の「私の個人主義」は、学生時代に『漱石文明論集』(岩波文庫、1986年)で読みました。これをごくたまに、今でも読み返すのですが、国家とか社会とか個人についての漱石の洞察の鋭さ、奥深さにいつも感服します。私は漱石は小説家としては偉大だと思いませんが、二十一世紀の現代にも通じる文明観や個人主義の考えを明治時代にすでに明確な言葉にしていた点で偉大だと思っています。

このほどぱらぱらと読み返し、改めて考えさせられました。漱石が英国に官費留学などして文学に打ち込み、煩悶した結果「自己本位」の考え方をするようになった、という経験談若い人たちにした後の、こんな箇所です。

 それはとにかく、私の経験したような煩悶が貴方がたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年、二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああ此処におれの進むべき道があった! 漸く掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか。既にその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああ此所だという掘当てる所まで行ったら宜かろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もし何処かにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――尤も進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに打つかる所まで行くより外に仕方がないのです。

長く引用しましたが、大切だと思うのは最後の方の「踏潰すまで」です。

私は「悶え苦しめば成長できる」「頑張れば不可能はない」式の精神論が大嫌いで、先輩のライターにそういう風なことを言われてはほぼ例外なく心の中で反発していました。人間はサイヤ人ではないので痛めつけられれば成長できるなどということは決してなく、勉強を重ねれば重ねただけ知識が身に付き、一歩一歩、前進することができるのだと考えています。

しかし、では精神論というものが全く不要なのかというと、そうは言い切れません。なぜかというと、漱石が言ったように、容易に打ち壊されない自信というものは、煩悶するくらいまで「何か」を問い詰め、その「何か」を文字通り踏潰すまで進まなければ得られないと思うからです。それは、勉強とかコツコツ努力とかをすれば乗り越えられることを超越していると思います。その領域まで足を踏み入れるには、執念とか意地とか、そういうものが必要になるんじゃないかと思います。

それはたった一人の、文字通り孤独の戦いに違いありません。周囲の誰かが助けてくれるわけでもなく、気づいてすらくれないでしょう。しかしたった一人で悶え苦しんだ経験は、きっと自分だけの宝物となり、それから先の人生を歩く揺るぎない自信を与えてくれると思います。

私は取材をして原稿を書くライターをやっていて、時に後輩を指導する場面もあるわけですが、精神論など口にしませんし、どちらかというと後輩がなるべく効率よく学び、成長していけるよう考えて教えています。しかし心の中では、当人には楽な道なんて歩かず、寸暇を惜しんで勉強や修練をして、七転八倒してもらいたい、そうした末にライターとしての自信を摑んでほしいと思っています。