杉本純のブログ

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小説家を目指すライター

ライターは諦めが早いらしい

鈴木輝一郎『何がなんでも新人賞獲らせます!』(河出書房新社、2014年)を読んでいて、思わず見入ってしまった箇所がありました。

「第二章 行き詰まらない小説の書き方」で、鈴木先生の小説講座の受講生にはさまざまな人がいて、中でライターから小説家への転身を図る人は、簡単に挫折する、とあります。講座では最初に五枚の原稿を締め切りまでに書く課題が出ますが、どんな素人よりもライターがその段階でまっさきに挫折していくのだそうです。

原稿が没を食らったことがあると自己紹介してくるライターもたまにはいるそうですが、小説は没が基本だと先生が言うと即座に辞めてしまった、とか。

先生はこう分析しています。

 要するに「書いたら一枚いくら」という仕事をしているので「三百五十枚から五百枚の原稿をもしライター仕事でやればいくら稼げる。無駄働きした具体的な金額がわかってしまう」ということですね。

「努力できないこじらせワナビ

先生が言うには、技術とは無関係に埋められる分量である五枚が書けない人は、要するに「小説を書きたくない」とのことです。

そのくだりを読んで、ライターをやって小説を書いて発表している俺って、どうなんだろ?…と思いました。

小説を書きたい(小説家になりたい)と言って小説講座の門を叩く。けれど五枚すら書けない人。それはつまり「努力できないこじらせワナビ」なのではないかと思います。

人生や生活が思い通りにならず、自己実現できずに悶々としていて、それでいて「俺すごい」というセルフイメージはやたら肥大している。「小説家になりたい」は、そのセルフイメージを実現する手段であり、本当は「俺すごい」を実感したいだけ。肥大したセルフイメージを実現するためには相応の努力が必要だけれども、それができず、辞めていく。だいたいそんなところじゃないかなと思います。

ある小説家志望ライターの話

そういう人はべつにライターに限らないんじゃないかと思いますが、思い当たる節があります。かつて、こんなライターがいました。

その人は、編集プロダクションでライター職に従事し、「小説を書きたい」と周りに言いふらしていました。ところが周囲の人は、その人が小説を書き上げたのを見たことがなかった。その人はプロダクションのマルチタスクに耐えられず、やがて退職。辞める時、「本格的に文学をやりたい」などと言い、退職後、現に真剣に創作をやろうとしました。ところが「三日三晩考えたけど何も出てこなかった」らしく、あえなく挫折…。

今その人はフリーライターをやっていますが、まさに「努力できないこじらせワナビ」だったのではないかと思いました。鈴木先生の講座にきてすぐ辞めたライターたちも、これに近いタイプではないかと思います。

ライターは、金にならない書き物が無駄だと思うのか…。私は、書いたものは決して無駄にはならない、と思うのですが。