夏目漱石は「中味と形式」(『漱石文明論集』(岩波文庫、1986年)所収)で、形式は内容のためにあるのであって、形式のために内容ができるのではない、内容が変われば外形も自然と変わると言っている。また加藤英俊の『取材力』(中公新書、1975年)の「材料七分、腕三分」には、文章の良し悪しは技術でなく素材に左右されると言う。漱石と加藤の見解と並べて考えると、形式を技術でいくら磨き上げても、材料という中身が駄目ならけっきょく駄目、ということであり、形式やそれを磨き上げる技術は中身に応じて良い形で用いられるべきだ…ということになりはすまいか。
他のライターの書いた文章を読んでたまに感じるのは、この文章は内容に応じた書き方をしてないな、装いは立派だが中身は大したことないな、ということだ。
文章だけはやたら持って回った、勿体つけた書き方をしている。けれども中身はぜんぜん大したことない。私はそういう書き方が嫌だが、それが往々にして「エモい」などと言われて高く評価されることが少なくない。
肉体が磨き上がってなければいくら装いが立派でも結局は駄目だろう。ブランドものの衣服やアクセサリをいくら身にまとっても中身が伴っていなければ駄目なのだ。逆に、そんなに中身が磨き上がっていなくても、それにふさわしい地味な装いをしていれば素朴で好感が持てることもある。装いが地味だとか派手だとかいうことはあまり意味がなく、中身をよく表しているかどうかが大事なんじゃないか。