杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

文章よりも内容

百田尚樹『夢を売る男』(幻冬舎文庫、2015年)を読み返す機会があったのだが、興味深いところがあったのでつい読み込んでしまった。この小説は自費出版の世界を描いたもので、百田はいろいろ言われている人だが、この本は面白い。

さて興味深かったのは、「いい文章」について書かれている箇所である。

「ところで、部長」と荒木が言った。「前から疑問に思っていたのですが、いい文章の基準って何ですか?」
「読みやすくてわかりやすい文章だ。それ以上でも以下でもない。もうひとつ言っておくと、文章というのは感動や面白さを伝える道具に過ぎん。つまり、読者をそうさせることに成功した作品なら、その文章は素晴らしい文章ということなんだ」
「なるほど」
「世の中には、作品は面白いけど文章が下手だなとか、したり顔でのたまう奴がいるが、自分の言っていることの矛盾に気づいていない。面白いと感じたなら、その文章は下手ではない」

その通りである。中身をうんぬんせずに文章の良し悪しについてあれこれ言う人は少なくないが、だいたいが「ライターヲタ」だと私は思っている。あくまで内容あっての文章であって、内容がくだらないのに文章がいいからその記事がいい、などというのはおかしいと私は考えている。

加藤秀俊『取材学』(中公新書、1975年)は、すでに古い本であるものの、あくまで大切なのは素材であって技術でどうにかできるのはほんのわずか、と述べているところは、今にも通じると思う。もちろんそれは、特徴ある文体なんて必要ない、とか文章技術に価値はない、ということではない。

上記は歴然たる事実のはずだが、どうも勘違いしている人が多いと感じる。そしてそれは、「書き手」になることに憧れを抱いている、とはいえ自分の内部には書くべきものがない、といった人ではないかと思っている。