杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

文体について

宮原昭夫の『増補新版 書く人はここで躓く!』(河出書房新社、2016年)には、以前は、文学とは文体のことで、文体さえちゃんとしていれば内容は二の次だという論調だった、文学に目覚めた人間はまず自分の文体を作らなくてはならなかった、などと書かれている。しかし宮原はその後で、「それはいささか主客転倒の趣さえあったのかもしれません」と述べ、文体というのは作者の文学世界が確立され、その結果として形成されるものかも知れないから、と言っている。

ライターとして多くの記事を書き、また小説も書いてきた経験から思うのは、文体というものは内容を表すのにふさわしいものが選ばれればそれで問題なく、ことさら心を砕くことではないということだ。

よく「エモーショナル」とか言って、やたら持って回った、かっこつけた文章を書く人がいて、読者の中にもそういう文章を高く評価する人がいる。以前もこのブログで書いたが、装いだけ立派でも中身がてんで駄目ならその記事は駄目なので、エモエモ言ってないで内容を突き詰め、磨きをかけろよと言いたい。

私の統計では、文体にばかり心を砕いていて内容に無頓着な人は、だいたい本をあまり読んでおらず、流行りの雑誌なんかをよく読んでいる。だからトレンドには敏感かも知れないが知識も見識も浅く、だから見かけ(文体)に騙されやすい。

以前は文体を磨くことが重視されたとするならば、それは多くの読者が見かけに騙され、ファッションとして作品を買い求めていたことの証拠と言えるかも知れない。今、小説の世界でそういうことが盛んに言われているとは感じないが、ライターの世界ではまだまだ文体大好きな人が少なくない気がする。

文句ばかり言ったが、内容に応じて文体が磨き上げられていれば、それはすばらしい効果を出すので、文体を磨くこと自体が良くないとは思っていない。山崎豊子『花のれん』など、文体が内容と相まって非の打ち所がない作品になっていると思う。

内容を離れて文体だけがいい、なんてことはない。