杉本純のブログ

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創作雑記16 描写は永遠につづく

夏目漱石の後期の小説は小説という形が解体していて小説とは言い難い、みたいなことを本で読んだことがある。

思うに、それは描写があまりに分厚くてストーリーが進行しておらず、ついにそのまま終わってしまっているからではないか。けれども、描写が分厚いといえばバルザックの小説もそうであって、しかしバルザックの場合それは冒頭部分だけで、後になると話がずんずん進んでいく。

描写そのものは厚くて構わないし、厚ければ厚いほどリアリティも増すのだろう。けれども、描写はやり出せばいくらでも続き、それは視界に入っている事物は無限に描き続けることができてしまうように、永遠に描写し続けることができてしまうのだ。それでは駄目である。話が進んでいかなくては小説にはならないので、やはりしっかりした「経糸」を大事にしなくては。

私自身の創作体験からいうと、漱石の悪影響が未だ大きいように思う。ストーリーの中のあるエピソードに差し掛かった時、それ自体は大したエピソードでもないのにやたら描き込んでしまい、ディテールにはまって出られなくなってしまう。そのエピソードはさっさと終わらせて構わないはずなのに、いったん描き込みを始めてしまったら描き尽くさなくては気が済まない、けれどもこのエピソードってそもそもちっとも重要じゃないと思う…といったジレンマに陥り、苦しめられ、挙句の果てにまるごと切り捨てる、という事態になってしまうのだ。

この癖をどうにかしたいのだが…。どうやら自分には「描写しなきゃいけない」といった思い込みがあり、物事の経緯を端的に書き進めていくことに心理的な抵抗があるようだ。

まずはずんずん書き進め、読み返してみて描写が不足していると感じるなら足す、という考え方でやっていくのがいいのかも知れない。