杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

ショートスリーパーの思い出

寝てない・努力してる・俺すごい

睡眠に関する本を出している医者の柳沢正史が、ショートスリーパーは稀であり、世の中にはショートスリーパーを自称する人がいるけど単なる睡眠不足だと言っていました。また、かつて出た、こうすればショートスリーパーになれる、みたいな本はぜんぶ嘘で、適切な睡眠量は遺伝で決まっているのでショートスリーパーにはなれない、と。

私はある時期に軽度の睡眠障害になったことがあり、以降は睡眠をきちんと取ることを大切にしています。以前は、睡眠を削ること=努力のように考えて、実際に睡眠時間を短くして小説を書いたりしていましたが、今はしていません。逆に、睡眠をきちんと取る方がいい文章を書けるのではないかとすら考えています。

睡眠時間を削る=努力という思想には根強いものがあるらしく、振り返ってみると、私はその思想に少なからず嫌な思いをさせられた気がします。

映画学校時代はゼミの担当講師が「一週間くらい寝なくたって平気!」と、ドキュメンタリーづくりに取り組む私たち学生に指導していました。取材や勉強に頑張った経験がない学生たちを叩いて伸ばそうとしたからこその言葉だったと思いますが、今はもうこういう指導は通用しないどころか学校側から制止させられるのではないか。

私自身、今は人を指導する立場にありますが、睡眠を削って勉強しろ、などとは言いません。しかし、それは厳しい指導がいけないからではなく、睡眠を削るのが間違いだと思うからです。ただ、時間をつくって努力しなくてはならないのは確かであり、その点は推奨はしてします。私にもっと熱誠があればその点を強く言いますが、結局は本人の意志と実行力に委ねられているのが現実なので、私は現状、その現実に合わせて指導しています。

社会人になってから何人か、「俺は三時間も寝れば十分」という人に会いました。そのうちの何人かは、昼間の仕事の最中に居眠りをしていました。その人たちは恐らく睡眠不足の自称ショートスリーパーだったのでしょう。また、たまに徹夜をしている人もいましたが、歯が抜けたりして不健康で、仕事で大した業績も残せず、会社もつぶしてしまいました。要するに努力の仕方を間違えていたのだと思います。私が問題視するのは、睡眠を削る=努力している=俺すごい、という自己陶酔的な図式です。こういう図式が、人を間違った方向に駆り立てるのだと。

吉村昭の『私の文学漂流』(ちくま文庫、2009年)にたしか「睡眠五時間」という章があり、働きながら小説を書くため睡眠時間を削っていたエピソードが紹介されていました。吉村は40歳の前に太宰賞を取りましたが、睡眠時間を削っていたのはそれ以前のことだったはずで、三十代なら頑張れたかもしれません。とはいえ、ショートスリーパーでないなら執筆にはむしろ害だったかもしれない、と今の私は考えたりします。