杉本純のブログ

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八木義德と吉村昭

佐伯一麦『からっぽを充たす』(日本経済新聞出版社、2009年)の「カナカナの起床ラッパ」は、吉村昭の訃報を受けて吉村の思い出を語る内容である。その前半で、吉村昭に最後に会った時のことが書かれている。1999年11月に行われた八木義德の葬儀でのことで、佐伯が司会を務め、吉村が葬儀委員長だったのだ。八木の葬儀に佐伯が参列したことは、佐伯の『読むクラシック』(集英社新書、2001年)にも間接的に書かれている。

その時、吉村は佐伯に、同人誌を出していた学習院大学時代に、八木の家を訪れて批評を仰いだのが八木との最初の縁だったと言ったようだ。

このことをもっと知りたいと思って調べたら、「文學界」2000年1月号に、1999年11月に死んだ八木義德の追悼企画「追悼●『文学の鬼』八木義德」が載っていて、吉村昭原田康子堀江敏幸、妻の八木正子が寄稿している。

吉村の寄稿「大きな掌」は、八木への敬愛の情を感じさせるいい文章である。これを読むと、吉村が初めて八木を訪ねたのは1952年の夏で、届けた同人誌には吉村の「虚妄」という短篇が載っていたことが分かる。八木は最後は町田市の団地に住んでいたが、この頃住んでいたのは横浜市の東寺尾で、吉村が訪ねた時は八木は不在で夫人が同人誌を受け取った。その後、吉村は何度も八木宅を訪れ、同人誌の合評会にも来てもらったことがあったようだ。八木は文学の同志としての思いからか、吉村からの謝礼を断るなど、無償で接していた。町田市に引っ越した時、吉村は移転祝いとして「床ヌプリ」というアイヌの彫刻家が作った木彫りの置物を持って行った。

葬儀については寄稿の末尾に書かれている。葬儀が行われたのは11月15日午前10時からで、場所は町田市の南多摩斎場。高橋英夫三浦哲郎のほか、町田市長や室蘭市長も来たようだ。寄稿には佐伯の名はないが、ここで佐伯と吉村が言葉を交わしたのは、「カナカナの起床ラッパ」にあるので確かである。