日本人は劣化したか
「惻隠の情」とは、哀れに思う気持ちや、可哀想だと感じる気持ちを意味します。もう十年以上前、仕事の取材でインタビュイーが、日本の文化や日本人の感性のすばらしさか何かを説明する時、その言葉を使っていたと記憶しています。語源は『孟子』にある言葉のようです。
良い言葉だなぁと思いますが、佐藤愛子によると、多くの日本人はこの「惻隠の情」を失いつつあるらしい。
『戦いやまず日は西に』(集英社文庫、1998年)の「無知無恥時代」は、1993年にボランティア活動中のカンボジアで死んだ中田厚仁(本書では「篤仁」と書かれている)について、その父が報道に述べた言葉に感動したというエピソードから始まっています。
父親は息子が国際貢献したことを称え、微笑さえ浮かべていたのですが、それを見たテレビのキャスターやタレントが、子供の死に際して笑っている父親を批判するようなコメントを出したことに、佐藤は怒りを覚えます。人は悲しくとも泣き喚くとは限らない、泣くことで悲しみを癒す人もいれば、微笑することで耐えようとする人もいる、と佐藤は述べ、かつての日本人は人の心の陰翳を汲み取るデリカシーを持っていた、と述べる。
テレビの若いタレントが中田氏に質問したそうだ。
「中田さんはずいぶんご立派なことをいっていらっしゃいますけど、本当の気持ちはどうなんですか?」
それに対して中田氏は「心の中では慟哭しています」と答えられたそうだ。いったいなぜそこまで他人の心に立ち入ろうとするのか。なぜその無礼を許して答えなければならないのか。公衆の面前で本心をいわせてそれが何だというのだ!
しかし私の怒りはタレントがいったという次の言葉を聞いて宙に浮いた。
「慟哭とはどういうことですか?」
と彼女は訊いたのである。中田氏は怒りもせずに「心の中で泣いています」と説明されたという。もはや日本人には「惻隠の情」はなくなったのか。そういって歎いていると、若者が訊いた。
「惻隠って何ですか?」
昔の日本人が皆、人の心を推して知る感性を持っていたかどうか…。それは私には知る由もありませんが、この手の日本文化および日本人劣化論は、私には疑わしいものです。
けれども相対的に、今の社会は昔より良くなっているはずなので、悲しみや苦しみの量も減っていると考えられる。それは悲しみを感じる機会が減っているということなので、やはり相対的に他人の悲しみにも鈍感になっていると言えるかもしれません。小説や映画は過去に比べ劣化している、という言説はよく耳目に触れます。実際その通りだと思うので、佐藤が感じたように日本人の多くは惻隠の情を失っているのでしょう。