杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

能天気な、あまりに能天気な

先日、ようつべで「私小説」について解説している動画を見て啞然とさせられた。私小説、エッセイ、ノンフィクション小説について、それぞれ辞書に載っている言葉を引用し、その中から私小説は大正時代から昭和時代にかけての主流だったとか言ったり、具体的作品をWikipediaから紹介したりと、なんともはや辞典に沿って説明するだけで自分できちんと調べることを全然やっていない。

私小説について調べるとなると、まず私小説について書かれた本を読む、ということがあるだろう。そんな本はごまんとあるのだが、動画では一冊も紹介されておらず、辞書の解説を引っ張ってきて、なるほど!などと驚いた顔をしつつ分かった「ふり」をしている。

なんというか…どうやら私小説=純文学=小難しい、という式がその人の頭の中にはあって、ようつべの視聴者もそういう頭でいることが前提になっていて、「みんな知ってる?私小説って、実はね…」といった風に自分はすごい発見でもしたような解説をしてしまっている。。

私は自分の周りの人の中に、文学=小難しい=高尚なもの、というイメージを持っていて、それに挑戦するのはカッコイイと思っている「文学ファッション」の人がいるのを何年も前から感じていた。しかし最近はそういう「文学ファッション」を気取る人は減っていて、その代わりというわけではないが、最近では文学を「高尚」を通り越して「珍奇」なものと捉えていて、この本面白いね~!などと言うのがあまりに能天気な感じの、こいつは作家の極貧生活とか苦悩とか、作品の背景となっている伝記的事実をまったく知らずに話しているんだな、とこちらに強く思わせる人が増えている気がする。ようつべで解説をしていた人もそんな感じだった。

もちろん読者は作品を楽しめばいいのであって、作家がどういう生活をしていたかとかどういう体験を元にして作品を書いたかといったことを気にする必要もなければ知らなくてはならないわけでもないから、問題ない。

まぁさらに言えば、ようつべを通して、ただ辞書を引用するだけの、素人に毛が生えただけのような解説をするのも、自由である。それで人気が出るなら結構で、まぁ学問の成果でなくてタレント性が受けているんだな、ということで納得できる。