杉本純のブログ

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始まらない人生

佐伯一麦『渡良瀬』(新潮文庫、2015年)を読んで、漠然とだが感じたことがある。人間の中には、「始まらない人生」を生きている人がいて、『渡良瀬』の主人公、ひいてはかつての佐伯自身がそういう人生を生きていたのではないかということだ。

『渡良瀬』は、古河の配電盤工場で働く主人公の、周囲の人びととの関係や過去のできごとが描かれている長篇小説。「海燕」1996年11月号まで連載されたが、「海燕」休刊に際して中断され、大幅な加筆修正を経て2013年12月に岩波書店から単行本で刊行された。私が読んだのは文庫化されたもの。

主人公は元電気工で、小説で賞を取ったことがあり、今は配電盤製作に精出している。小説にはストーリーらしきものはなく、職場・市井の人の来歴や主人公との交流の様子、家族のこと、渡良瀬遊水地をはじめとした周辺の景色がひたすら描写されている。

佐伯一麦私小説を複数、特に初期のものを読んできた人にとっては、佐伯文学の世界が一段と拡張したことを感じられるかも知れない。しかし、佐伯に馴染みのない読者にはかなり退屈な作品だと思う。

佐伯はかねて、「自画像」を描くつもりで私小説を書いていると言っている。これは、「一麦」の名の由来にもなった画家ゴッホが自画像を多く描いたことと無関係ではない。

「自画像」というキーワードで考えると、『渡良瀬』は、なるほど巨大な自画像に見える。工場の仲間たち、近所の住人、焼き鳥屋の女、妻、病を抱える子ども…それぞれの来歴や性格や行為を仔細に描きつつ、自分自身をその関係性の中に浮かび上がらせている。その意味で、この作品はかなりユニークな作り方をしていると言える。

主人公は決して意志的ではない。配電盤製作の技術習得に熱心だったり、子どもの病気をどうにかしたいと悩んだり、小説を書けない状況に悶々としたりするが、新たな行動に移って日常を破ることはない。私小説なんだから地味で当然かもしれないが、地味だろうと俗っぽかろうと、目的を持ったり巻き込まれたりして日常の外へ出て行く私小説はある。そういう意味で、『渡良瀬』は「自画像」そのもののように思える。主人公本人のことはよく分かるが、意志が行動に発展して新たな局面に至ることはない。ストーリーらしきものがないのだ。

私はこの点に、「始まらない人生」とでも言うべきものを漠然とながら感じた。「始まらない人生」とは何かというと、強烈なトラウマ、心の傷を抱えているために、現実生活において積極的に人と関わったり、交渉したりして変革を起こしていくことができない、つまり時間と空間の連続の中での一貫した意志的な行動がない、ということ。

トラウマや心の傷は、本書では詳細には描かれていないのだが、佐伯の過去の私小説を読んだ者としては、過去の作の、幼児期にショッキングな体験をして心の傷を抱えている主人公と本作の主人公が近い存在であるのは分かる。

もっとも作品そのものはそれぞれ別々に成立しているので、作品同士をつなげて考えようとするのは私の勝手な行為に過ぎない。

しかし、「始まらない人生」という概念は、佐伯文学を解く重要なキーワードになる気がする。