杉本純のブログ

本を読む。街を見る。調べて書く。

小説は小説、年譜は年譜。

佐伯一麦の随筆集『とりどりの円を描く』(日本経済新聞出版社、2014年)に、「年譜を読む」と「続・年譜を読む」という二つの短い文章がある。

これらは山形新聞夕刊に2005年8月9日と23日に掲載されたもので、佐伯の年譜に対する考えが述べられている。

「年譜を読む」では初めの方に、自身の初期作品をまとめた文庫本が出ることになり、そこに掲載されることになった、二瓶浩明による年譜に加筆修正をしていることが書かれている。その文庫本は『ショート・サーキット』(講談社文芸文庫、2005年)だが、その年譜の末尾には「二瓶浩明・編」とだけ書いてあるので、私はこれに佐伯が修正を入れていたとは知らなかった。同じ講談社文芸文庫の佐伯作品集『日和山』(0000年)の年譜には、末尾に「二瓶浩明編の年譜に著者が訂正加筆」と書いてある。

さて「年譜を読む」には二瓶作の年譜の修正作業についてこう記されている。

 まず戸惑いがある。それは、自分の人生が他の人から客観的に見れば、こんな風に見えているのか、という面食らったような思いだ。小説やエッセイ、インタビューの類から年譜的な事実が拾われているわけだが、文学的な事実と実人生上の事実とは異なるものだ、と改めて痛感させられている。
 小説の上では自伝的なことを書きながら、年譜ではそれを糊塗しようというのではない。だが、私小説といえども、表現であるかぎりフィクションであることから逃れられない、いや虚構を排除したつもりの「私」の虚構の塩梅を読み取ることが私小説の醍醐味とも言える、そんな立場からすると、文学作品の記述から年譜的な事実を拾い上げることの危うさが感じ取れるのである。

そして、瀬戸内寂聴の父親の死について、瀬戸内の年譜の記述と私小説『場所』の文章とでは読者が受ける印象がぜんぜん違う、『場所』の方が悲劇性が深い、年譜では死はさりげなく扱う方が良いのではないか、と言っている。

年譜もそれなりに「編集」されるものだから、自ずと年譜作者の感受性なり意図が滲み出るものだろう。一方で、私小説には作者の人生の出来事について、作者本人なりの「真実」が滲み出るだろう。小説は小説、年譜は年譜なんだと思う。

もしその年譜が「小説」に書いてあることを事実として扱っていたり、事実でないことが書いてあったりすれば問題で、修正されるべきだろう。「続・年譜を読む」には、立原正秋江藤淳の自筆年譜の偽りが死後明らかになったことが書かれている。新たな事実が発見されれば、それまで事実と考えられていたことは覆り、年譜は更新されるのだ。