杉本純のブログ

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佐伯一麦「懐かしい現実の手応え」

佐伯一麦の「懐かしい現実の手応え――古家に住まう」は、朝日新聞1994年8月18日夕刊に掲載された随筆で、『散歩歳時記』(日本経済新聞社、2005年)に収められているのだが、これがすごくいい。北蔵王山麓にある、早くに妻を亡くした老人の古家を老人の死後に借りることになった佐伯が、家を改装する肉体労働の過程に、今は亡き家の主人(老人)への思いを馳せる内容である。

二瓶浩明の佐伯年譜によると、佐伯は1993年1月に仙台市青葉区花壇のアパートに越し、1994年早春より神田美穂とこの古家に移る。が、恐らく花壇のアパートは引き払わず、アパートを執筆の場としつつ神田と同居していたものと思われる。

杉の枯れ葉が堆く積もった荒(あば)ら屋を蘇らせるのに佐伯は難儀するが、かつてここに住んでいた老人と心の中で対話しながら作業を進めていく。その過程は随筆(手記というべきかも知れない)ながら小説を思わせる筆致で巧みに描写されている。佐伯はやはり、肉体労働を描いた文章が特にいい味を出す作家だと思う。

屋根の雨樋の修理のついでに廂(ひさし)のトタンの張り替えも行った後、佐伯はサンルームのようになった廂の下で夕陽の残照が射し込む中、ビールを飲む。

自分の文学のことを思った。現実が、虚構と分かちがたくなったような現代にあっても、私にとっては、生活の細部が伝える現実の手応えは生の保証としての重みをまだ失っていない。そして、虚構の物語の中に自分の体験の細部を埋没させ奉仕させるためには、現実は私にとってなつかしすぎる、と。

上記引用の最後の一文は、どういう意味だろう。現実が懐かしすぎる、ということは、文脈から推すと、つまり現実(体験)は虚構(物語)から遠すぎる、ということになると思う。現実を虚構の物語に埋没させるには、現実にもっと接近しなくてはならない、ということか。

 

追記(2020.11.15)
引用最後の一文の解釈について、ある方からTwitterでコメントをもらった。すなわち佐伯は、虚構の物語でなく現実を書きたい、と言いたかったのではないかということである。その通りだと思う。思えば佐伯はデビュー間もない頃にも、生の現実の手応えを大切にすることを語っていた。