杉本純のブログ

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消耗戦

小手鞠るいの小説『いちばん近くて遠い』(PHP研究所、2014年)を読んでいたら、舞子という登場人物による、ライターに関する次のような台詞がありました。

フリーライターというのはね、消耗戦を闘っている二軍の選手みたいなものなのよ。将来性がないの。言葉はきついけど、使い捨てのカメラみたいなものね。誰かにインタビューをして写真を撮って原稿を書く。書かれた原稿が活字になる。雑誌が発売される。でもそれが、何か大きなもの、実りあるものにつながっていくということは、まずないのね。ひとつ書いたら、それで終わり。また次を書く。つぎつぎに書いて、つぎつぎに仕事をこなして、つぎつぎに忘れられていくの。(後略)」

私は本書をぜんぶ読んでいませんが、舞子は都内の私大を卒業後、製薬会社の総務部に勤め、退職後は派遣社員として複数の会社を渡り歩き、小説内の現在はフリーライターです。派遣社員時代に、学生結婚した男との離婚を経験しています。そして、引用した文章の通り、どうやらフリーライターの将来には見切りをつけていて、小説家になるために作品を書いています。

本書のストーリーはひとまず置いておいて、ライターである舞子のこの「ライター観」とでもいうべき批評は、ライターをやっている私には考えさせられるものがあります。

ライターという仕事を続けていると、たしかに、次から次へと原稿を書くものの、それらが次から次へと消費されるだけで、がむしゃらに働いていたらいつのまにか疲労困憊していた、という一種の消耗戦を闘っているような気持になることがたまにあります。他のライターと話していても、そういう意味のことを聞かされることは少なくありません。

上に引用した舞子の考えは、ライターという仕事をだいぶ悲観視しているように感じます。ライターには、他の仕事では得難い喜びと面白さがあるのは事実です。しかし、署名原稿を書くでもなく、専門性も持たずにライター仕事を続けていたら、ただクライアントにいいように使われ、やがてもっと元気のある若手にそのポジションを取って代わられる運命にあるのは、少し考えれば分かることと思います。

舞子が小説に望みを抱くのは、ごく当然のことかもしれません。小説家という職業はライターの延長線上にあるわけではありませんが、自分が著作権を持つ著作物が蓄積されれば、それは自分の資産になっていきます。ライターがクライアントから仕事を受注して、書いて、納品するのとは仕事の仕組みが根本的に違います。

ちなみに多くのライターは、小説家を目指すことをせず、編集者か、専門ライターになって収入を増やす道を歩むはずです。

いずれにしろ、頼まれたライター仕事は何でも引き受けるような働き方を長年続けるのは、体力的にも精神的にも厳しいと思います。五十代になってもそういうライターを続けている人を見たことはありますが、大変です。消耗戦というと言葉が悪い気がしますが、そういう側面があるのは否定できません。また、舞子の進路選びが妥当かどうかは別として、ライターを続けながら次のステップを見据えて行動するのは大事だと思います。